ある時、石田三成は、直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、
深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した。
「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。
御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。
天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領となり給え、
我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」
直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、
「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。
またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。
これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。
たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、
中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、
東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき。」
と囁いた。
これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、
僅かに十八万石にて野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、
思いのままに謀を廻らせた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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