三成の先祖は、江州粟津ヶ原で木曽義仲を射落とし、
その忠賞によって右大将頼朝より豆州に3千町を賜った、
石田判官為久にして、大織冠(藤原鎌足)の末裔である。
元々は三浦一族であるが、三浦家が衰微すれば共に流浪し、
為久より八世の石田藤右衛門尉為成という者が、
江州の山家に居住した。
二子あって次男を左吉宗成と称す。
後に所謂、石田治部少輔三成と称すはこれなり。
嫡子は、木工介重成という。
しかるに左吉宗成は穎悟聡明、幼くして文武の道を学んでかつ諸芸に達し、
良将に仕えることを望む。
時に、太閤は播州半国を領し姫路城にあって、羽柴筑前守と称す。
左吉はこれを聞いてここに至る。
太閤は、左吉の由緒才智を憐れみ3百石を賜った。
時に18歳。
後に太閤が中国三州の主となった時、家人の領地をあまねく加増した。
石田は新参だが忠勤によって5百石の新恩を加えた。
この時に太閤は曰く、
「ただ所存の旨を申せ。」と。
石田は恩を謝して曰く、
「そればらば、宇治・淀川の両脇に毎年生じる荻と葦を、
郷民らはほしいままに刈り納めていますが、
この運上を賜ったならば恐れながら5百石を返上して、
かつ1万石の軍役を勤めましょう」と。
往古よりこの運上を取って来る例ではあるが、
その才を試すためと太閤は思案あってこれを許した。
また軍役については追って申し付けるとのことであった。
石田は大いに喜び宇治・淀の川上から数百里川下まで生じた葦・荻を、
1町にどれくらいとの運上を定めて刈り取らせたところ、
その穀高は幾許であった。
その頃、信長は、波多野石右衛門大夫秀治の追討をして太閤が先手の大将であった。
時に左吉は団扇九曜に金の吹貫を垂れた旗を先に立て、
華やかに鎧をつけた武者は金の吹貫を皆一様に腰印とし、
数百騎を纏って遥かに引き下って押し来る。
太閤は顧みて怪しみ、軍使を馳せて問うと石田佐吉宗成と答えた。
「さては宇治・淀川の運上は万石に及んで、今度の軍役を勤めたのか。」と、
太閤はますますその才智を感心なされた。
かくて後に太閤は天下の主将となり、恩寵はなお深く、
ついに江州佐和山23万5千余石を賜り、官四位に至って五奉行の随一となった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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