安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、
「鬼吉川」と称された曽祖父・吉川経基の再来とまで言われた。
剛勇無双の武人であり、
特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして、
「今鎮西」と呼ばれていた程であった。
が、武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していた。
戦国の地方豪族には珍しくない話ではあるが、
親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものは無かった。
その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、
吉川家は元就に乗っ取られてしまうのである。
元就は次男の元春を養子に入れた後、
興経は本拠から引き離して隠居させてしまう。
ところが相変わらず空気の読めない興経は、また何やら画策を始めた。
元就、「殺せ。」
ついに暗殺命令が下る。
しかし、興経は強い。元就は慎重に策を練った。
天文19年9月27日未明、熊谷信直と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲。
興経はただちに迎え撃った。が……。
興経、「あれ?内蔵丞は?」
興経の側近で、近隣にその名の聞こえた勇将豊島内蔵丞興信が見当たらない。
興経、「そういや元就の奴が、
『君の持ってる三原っていう名刀見せてよ。
大事なものだから豊島くんに持ってこさせてね』
って……。それで昨日、元就の所へ使いにやってたっけ……。」
元就に図られたのである。
もう殺されてるだろう。
興経は討手を自慢の弓で迎え撃とうとした。が……。
興経「ちょww弓の弦が全部切られてるし。」
元就に買収された近臣が、事前に弓を使えなくしていたのだ。
興経「これほど運つきざれば、われ今、人手にかかることあらじ。
天、われを亡ぼせり、人を恨むべからず。」
さすがに豪傑である。大笑して開き直り、
右手に三尺五寸の青江の刀、左手に二尺八寸の盛家の刀を振りかざすと、
広縁の端に立って、討手が押し寄せてくるのをむかえた。が……。
興経「ひでえwww刀の刃も潰されてる。」
それでも興経は数十人の敵を刀で殴り倒したが、
後ろから腰を矢で射られてしまった。
明石という侍女が矢を抜こうとしたので、
興経は「後ろに抜くんじゃない。前へ押し抜け。」と命じた。
明石が矢をつかみ前へ押すと、
矢先が腹を突き破ったので自ら鏃をつかみ前へ引き抜いた。
興経「汝は日ごろ頼みたる若党にはまさりたり。この志を冥途までも忘れまじきぞ。」
興経は天野隆重までたどり着き、彼を組み伏せたものの周辺の討手に引き剥がされ、
ついに首を挙げられた。
嫡男の千法師も殺され、藤原南家・吉川氏はここに滅亡する。
一方、豊島内蔵丞も暗殺される所であったが、かろうじて脱出。
毛利の警戒線を突破して帰還したのだが……、間に合わなかった。
内蔵丞は腹を十文字に掻き切り、その場に介錯する者がいなかったので、
みずから喉を押し切って自害した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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