大永三年(1523)6月末、
毛利幸松丸は俄に発病し、療薬験無く、悩乱驚働せられ、
終に七月十六日、齢わずか九歳にて早世された。
父・興元の死後程なく、不幸また打ち続けば、
毛利家は一族を始め家中の諸士男女上下、これを愁傷した。
家臣の福原、桂、志道、口羽以下評議し、
「この上、当家跡目の沙汰を引き述べするようでは、今は戦国の時であるから、
猶又いかなる変異が起こらないとも限らない。
であるが、別に後嗣に立てるべき、興元様の子息がおられるわけでもない。
だからといって、江家(大江家)累代の血脈を断って、
他者を家督に頼むべきではない。
であれば、叔父・連枝の中から相続して頂く他ない。
そうであれば、興元様のご兄弟の中で長兄である多治比刑部少輔殿(元就)は、
今百万の将にしたとしてもその器量に不足のない方で、
現在中国地方における若手の諸将の中でも、この人ほどの弓取りは居られない。
三男北殿(就勝)は足の傷によって、近年は歩行も自由でない。
四郎相合殿(元綱)は、
軍将の器量が無いわけではないが、その器量も元就殿に比するものではない。
その上、舎兄である多治比殿を差し置いて庶弟を主君と仰ぐのも順義あらざる事である。
かれこれにより、元就殿家督の他あり得ない。」
そう評議したが、毛利家全体での衆議は喧喧囂囂と意見分かれ、
どういう決定もなく一日一日と引き延べに及んだ。
そんな中、山口の大内義興がこの機会に乗じて毛利の遺領を併呑する、
との風聞が広く流れた。
かつ又、尼子経久も自らの子息の中から、
毛利家の家督に据えたいとの望みを持っていると、家中専ら沙汰しており、
「このように跡目の議定が遅滞し未決の状態が続けば、
大内・尼子の両家が大身の威に誇り、
当家を奪おうとの望みかけている以上、
今後いかなる危害が起こるか予想も出来ない。
この上は、刑部少輔元就殿こそ、智仁勇の徳があり大将の器に当たり、
その上現在の連枝の中の長子であるから、この人の他に求める余儀はない。」
そうようやく会談は結論し、
福原、桂、志道、口羽、児玉、赤川、井上らが元就の居城である猿掛に出向き、
「元就が本家を相続され、近日吉田に入城されるにおいては、我々御馳走申すべき。」
旨を申し述べた。
元就はこれを聞き、
「興元父子うち続き不幸の上は、勿論跡目の沙汰無くては叶わぬ事ではあるが、
この元就をあなた方が跡目に決定するとは、全く思いもよらなかった。
であるが、私も兄弟の中で長幼の序に従えば長兄に生まれたのであるから、
固く固辞するべきでもない。
この上は、当家血脈連続のためでもあるから、いかようにもその意見に任せよう。
であるが、
最近尼子経久が自分の子供を跡目に立てたいとしきりに望んでいるとの風説がある。
もしもこれが本当であれば、あなた方や私の決断だけでは、
経久が押してその計略を行う可能性がある。
その期に至って我々に難渋を押し付けてくれば、
多勢の威によってどんな事が起こるか想像もできない。
そうなってしまえば、かえって私の相続が当家の災いの元になってしまう。
であれば、この事を予め京都の将軍家に訴え、
天下の台命を給わることが出来れば、他者の競望を防ぐことが出来る。
その上にてこの私の相続を披露して然るべきであると考える。」
この元就の意見に、諸臣も尤もであると感心し、再び衆議熟談して、
粟屋縫殿充を、物詣と称し密かに京都に上らせ、将軍家に訴訟したところ、
公方義晴公より『元就が毛利家を相続し、本領安堵すべき』
との台判を給わった。
粟屋は喜び急ぎ帰国し、福原以下の諸臣も会議して、
『かかる名主を軍将とし、我々がその指揮に従うのは、
当家益々の興隆繁栄の基礎となるでしょう。』
と、喜ぶこと限りなかった。
かくして福原、桂、志道、口羽以下の諸臣ら、元就の吉田入城を迎えるため、
各々猿掛城に至り、
「幸松丸殿卒後の中陰の日数、未満の中ではありますが、
吉田城が無主のままでは如何かとも思われ、
この上は一日も速く入城されて然るべし。」
と、本来あるべき儀礼等もそこそこにして、とりあえず彼らを伴い、
同年八月二十八日、吉田郡山城に入城したのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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