毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、
未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時、毛利幸松丸のもう一人の後見人として、
元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが、
石見の豪族にして、幸松丸の外祖父である高橋久光であった。
先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、
大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、
20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。
だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、
兵を出したものの、
三吉傘下の加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
高橋の援軍として参加していた元就は久光の死後、単独で弔い合戦を展開。
攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。
しかし城主・青屋友梅も去るもので、
水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ、
寄せ手の戦意を下げようとした。
それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も多数いたが、
元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。
城主・青屋友梅は使者として訪れた光親を大いにもてなし、
その上自らの趣味は馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、
光親の前に数頭の馬を引き出し、盥になみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、
更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。
光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・。」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人、
「城内の水は尽きた、
敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。
果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。
元就の言うとおり城内の水と食料は絶えていたと言う。
これにより元就はより一層の名声を高め、
目の上のたんこぶで有った、
高橋一族の毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。
敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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