天正14年(1586)、島津の驚異にさらされた大友宗麟は、
豊臣秀吉に援助を求めるため上洛する。
さて、大阪城にて宗麟は秀吉に閲する。
ちょうどその時秀吉は、千利休に茶を立てさせていた。
秀吉は宗麟に声をかける、
「宗麟も茶を好かれるのか?」
宗麟畏みつつ、
「若き頃より良く嗜み、珍器と呼ばれる茶器もいささか所持しております。」
「ならば宗麟にも一服進ぜよう!」
と、秀吉は自ら茶を立て宗麟に与え、
さらに宗麟の家臣4,5名も呼び入れ同じく茶を与えた。
この日、秀吉は大変なご機嫌で、
「宗麟、我が城の天守も見ていくが良い!」
と宗麟以下を引き連れ天守の方に向かった。
ところでこの頃、大阪城の天守はまだ普請中であった。
普請小屋でこれを監督していたのは秀吉の弟・豊臣秀長であった。
秀長は宗麟に、
「このように天守は未だ建設中ですが、
大友殿故に思わぬ見物をお許しになられたのでしょう。」
と言葉をかけた。
秀吉の大阪城は九層にして高くそびえ天に近く、
最上階からは千里四方を眼下に収めることが出来、
目を驚かす壮観であった。
下から三層目は杉の箱が十四・五ばかり置かれ、
それぞれに「小袖」「綾」「紅」といった書付がしてあった。
一階の下は倉庫になっており、様々な調度品が置かれていた。
五層目、六層目には大量の太刀が置いてあり、秀吉はこれを一々大友一行に見せた。
秀吉は天守の上で自ら指さし、
「あそこはどこそこの国、あれは何々という在所である。」
と教えたのだそうだ。
さて、それから天守を降り広間にて茶となった。
この時秀吉は「茶器はいくらでもあるから。」と、
宗麟の供の者たちも皆召しだし目通りした。
その上で、
「我らはもはや隔たりのない関係であるのだから、わしの寝所も見せよう!
供の者たちも苦しからず。」と皆を連れて奥に入った。
秀吉の寝所には台(ベット)があり長さ七尺(約230センチ)ばかり、
横四尺((約130センチ)ばかり、高さ一尺四五寸(約50センチ)であった。
猩々の皮を敷き枕には黄金で色々な彫り物があった。
御座は九間(約16メートル)の広さ。
置いてある黒漆の具足箱の、金属部分は皆黄金であった。
その上に置かれた太刀も梨地を黄金で装飾されていた。
その次の間も6間(約10メート)の寝所であった。
これも台は前のと同じであったが、唐織錦の夜着、
蒲団といった物が山のように積み上げられていた。
二間に秀吉の持つ名物の茶壷が置かれてあり、
いずれも金襴の袋に入れられていた。
ここで秀吉、
「わしの秘蔵の壺を見せよ。」
と命じ、これに宗易(千利休)、今井宗薫、津田宗及、紹安(千道安)たち、
仰せを承り、
「四十石」「松花」「佐保姫」「撫子」「百島」という五つの壺を開いた。
この時、今井宗久たちは、
「このように御機嫌の良い殿下は前代未聞ですぞ!」と驚いていた。
この他「京ニ双月」「近江ニ捨子」「淀ニ白雲」と言う茶壷も置かせた。
何れも秀吉秘蔵の品であったが
「この中で第一は四十石であるが、特に宗麟に。」
と、これを下された。
さて、宗麟は御前を下がると豊臣秀長の元に挨拶をしに行った。
秀長は変わらず普請場の假屋に居たが宗麟を大いにもてなし、
宗麟が帰ろうと座を立つとその手を取り
「どのような事ももはや安心してください。
内々の事は宗易(利休)に、公儀の事はこの秀長にお任せなさい。
悪いようにはしませんよ。」
と、多くの人々がいる中を、手を取って送り出したという。
以上、大友宗麟が初めて登城した大阪城で体験したことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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