南蛮国よりキリシタンという宗旨が伝わり、
豊後国の府内丹生島に一寺を建立してその宗旨を布教した。
大友家中の清田鎮忠、田原近江守らはこの宗教に入信し、日夜聴聞した。
大友宗麟は、このことを聞いて、田原近江守を召して吉利支丹宗の事を尋ねた。
近江守は九州一の弁舌の人であったので、
切支丹の外道(寺社を認めない事)の仔細を、さも面白く語った。
これを聞いた宗麟は、
「昔、源頼朝公の仕置にも、神仏を鎮めよという内容は第一に見える。
そのような大法であるので、私も神仏を渇仰している。
所がそうしているのに、良き事はなく世の災いは多い。
そのような役に立たぬ諸寺諸社を破却するには、
外道宗でなければ成り難い。」
そう言って、切支丹に入信した。
この事について、ある年、豊後国内の社家の者が、
宗麟を調伏するという事があった。
この事が宗麟の耳に入ると、彼は激怒し、
「私の武運長久の祈祷などこそすべきであるのに、
そうではなく私を調伏するとは、手飼の犬に脛を噛まれるとの言葉通りだ!
事を良くしようとして返って悪くすると言うのはこういう事だ。
この事件に関わった者は、一人残らず死罪にせよ!」
そう命じたが、これを重臣である吉岡宗観が留め、
領内からの追放処分で済ませた。
しかしこの事で、宗麟の憤りは却って深くなり、
それがあって切支丹に成ったのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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