ある道での素晴らしい人を讃える際、現代でも良く使われる言葉。
この二つ、織田信長が使い出したといわれている。
戦国大名の権化ともいうべき信長は、
ある時は慈悲深く、ある時は冷酷無比、
とかなり複雑な個性をもっていた。
そのうちの一つに、褒めるの大好き! という面があった。
特に相撲達者が好きで、しばしば大会を開き成績の良い者は、
苗字も持たない低い身分の者だろう、と百石取りの家臣にした、
という逸話が伝わっている。
名人という称号も、
元は信長が本因坊算砂の囲碁の腕を褒めたのがはじまりとされている。
さて、一方の天下一。
信長から、実際に天下一という称号を授かった家臣に、
道家清十郎・助十郎兄弟がいた。
彼らは尾張守山出身で、森可成の家臣もしくは寄騎という立場だった。
美濃・高野口合戦において、
まだ同盟を結ぶ前の織田軍と武田軍が戦った際に先駆けを務め、
首三つを取るなどの功名を挙げた。
その戦いぶりがよほど見事だったらしく、
信長は道家兄弟の旗に直筆で「天下一之勇士也」と書き、褒美とした。
道家兄弟は、織田家中から名誉の武人と羨ましがられていたという。
が、この兄弟はその後、長く生きなかった。
森可成が、近江坂本において浅井朝倉の大軍を相手にし奮戦の末に討ち死にした時、
これに殉じたのだ。
また、天下一の称号は職人などにも与えられ、
賦役免除などの特権が伴った。
これにあやかろうとしたのか、
例えば鏡作りの世界では製品に天下一、と彫り入れるのが流行。
しかし江戸幕府が天和二年(1682)に天下一の称号の使用を禁止し、
以後は途絶えた。
なお信長の天下一、というのは何もその世界で唯一人、
というほどの意味はなかった模様。
何しろ、道家兄弟からして二人とも天下一だったのだから。
江戸時代の創作色の強いほうの信長記だと、
「天下一を名乗るのが二人もいて、信長が残念に思う。」事件なんかがあるが、
このあたりの価値観の変化を想像すると面白いかもしれない。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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