信長の家臣団には異例の抜擢を受けた者や、
相撲取り・黒人など異色の者がいるが、
巡礼出身者もいた。
巡礼とは諸国の神社仏閣霊場を訪ね回り礼拝することをいい、
そんな巡礼の一人である埴原常安は、
諸国を遍歴していた途上、尾張清州の長光寺六角堂で昼寝をしていた。
「おいコラ。どこで昼寝しとる。」
鷹狩りをしていた信長も、その六角堂を昼寝の場所と決めていたらしく、
昼寝をしていた常安を蹴とばした。
それが縁で常安は、信長に仕官することになったという。
巡礼出身の武将は当時でも珍しかったようで、
「太閤記」「祖父物語」
など江戸初期の書物に、彼の記事が見られる。
常安は美濃に20貫の知行を受けやがて尾張清州城代をつとめ、
信長死後には尾張国守織田信雄に仕え、
清州の町奉行となるも、
信雄転封後は信長の長女・五徳付として一生を終えた。
そんな常安は信長とある秘密を共有していた。
それは信長の許に濃姫が輿入れした頃にさかのぼる。
信長は侍女の中条という女性を孕ませてしまい、
それを知った家老の平手政秀は、
「正室を迎えたばかりなのに、
側室でもない女性に子供を産ませるのはあまりに外聞が悪い。」
と考え、懐妊した中条を平手の養女として埴原に下賜したのだ。
やがて中条は男子を産み、信長はその子に「乙殿」と命名した。
その男子は長じて埴原左京と名乗り、
常安死後、埴原家の家督を相続して尾張藩に仕官し、
信長の血脈を明治まで伝えたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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