天正10年(1582)3月14日、
信州浪合に駐屯していた織田信長のもとに、
武田家滅亡の知らせと勝頼の首が届いた。
信長は喜んで勝頼の首に向かい、
「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、
うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、
くやしゅうてならぬわ。
・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。
望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」
そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。
見ていた近習の竹中重矩は、
たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。
(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、
あのような真似をされるのだろうか?
普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・。)
(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
(それもそうか。)
「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。
ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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