小田原北条家の宿老である松田尾張守入道(憲秀)は、
かねて嫡子である笠原新六郎政尭(政晴)の勧めで、
豊臣秀吉に内通していた。
先に入道は、秀吉より依頼されていた、
小田原城を見下ろせる土地として笠懸山を選び、
この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。
そこは小田原の西南に有る天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。
秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。
そこは正しく城内を真下に見下ろす位置であり、
ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。
すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、
一夜にして城を築いたのである。
これが石垣山の一夜城と呼ばれるものであった。
小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、
一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは、
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、
舌を巻き身震いをしたという。
以後、この山を石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。
啼きたつよ 北条山の 郭公
これはこの時、秀吉の作った発句である。
秀吉は、徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、
小田原城を見下ろしながらこんな話をした。
「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。
何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」
そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、
小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し、
「貴殿も共に。」
「然らば。」
と、二人並んで小便をした。
これより以後、並んで立ち小便をすることを、
「関東の連れ小便。」と、
呼ぶように成ったのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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