秀吉の着陣☆ | げむおた街道をゆく

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豊臣秀吉は、天正十八年三月六日、尾州清州城に着陣、暫く滞陣して後、

十八日に駿州藤枝の宿に入り、翌十九日駿府へ入った。

 

徳川家康は、これを待ち受けるため長窪の陣より帰っていたが、

これに対し、石田治部少輔三成の寵臣が讒訴した。
「家康公に二心有りとの噂が陣中に立っています。

駿府城へはお入りに成らないほうが良いと思われます。」
 

しかしこれを聞いた浅野弾正少弼長政が、
「そのような事あるがずがない、それは風説であります。」
と秀吉に断言した。

 

秀吉もその噂を意に介さず駿府に入城した。
駿府城での家康の接待は至れり尽くせりであり、

秀吉も大いに喜び、その後清見寺へ移り、また暫く滞在した。

家康は秀吉の通行のため、予め富士川に船橋を架けていた。

しかしこれに対しても、疑心を持った者が、
橋になにか仕掛けがしてあるかもしれないと疑義を唱えた。

 

そこで浅野長政が、先ず自分から試しに渡り、その旨を秀吉に伝えた。

これにて秀吉も安心して船橋を渡ったという。

二十二日、家康は再び長窪の自陣へと戻った。
 

二十七日に秀吉は沼津に着陣。

これを待ち構えていた諸侯は浮島ヶ原へ出て秀吉に謁見したいと、
前日より申し出ており、秀吉も征途の途中ながらそれを許し、

近侍五、六名を限って召し連れ対面したが、

自分だけは京を出るときと同じ綺羅びやかな服装で出た。


徳川家康を始め、北畠内府(織田信雄)など、

諸将、諸士雲霞の如く居並んで秀吉を迎え、その着陣を祝った。

その後、秀吉は竿ヶ原へ出て、昨年、北条氏政父子の使者として、

大阪入りした石巻左馬允康政を拘束し、
牢輿に乗せてここまで連れてきていたが、

この場で一命を助けて伊豆相模の境で小田原へ向けて追放した。
 

これは秀吉の着陣を、北条父子に知らせるためである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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