伴天連追放令☆ | げむおた街道をゆく

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1586年5月のこと。

秀吉は、大阪城にイエズス会準管区長のコエリィオ、書記のフロイスを招き、

豪壮な城内の夥しい豪奢な部屋の数々、金箔の茶室を自ら案内し、
イエズス会士を驚嘆させた。

 

が、その目的は信長と同じく己の威を彼らをして、
西洋に伝えせしめること、及び銀の輸出、大砲、船舶の輸入、交易の仲介の依頼、
更には半島への侵攻も匂わせたのだった。
 

この時、コエリュオは十分な思慮も無く、唐入りの際には、
ポルトガル所有の大型船の供与を約してしまった。
大いに気をよくした秀吉は、

見返りに布教の許し、特許状をイエズス会に与えている。

その翌年の7月、九州征伐も事がなり秀吉は、

ゆるゆる博多筥崎宮側の陣所に滞在し、
臣下となった諸将に各々知行の割り振りを行っていた。

そこに長崎よりイエズス会、コエリィオ、フロイスが乗るフスタ船がやって来た。
かねてより秀吉から大型のナウ船の来航を依頼されていたが、
博多湾が遠浅のために止む無く小型の快速船でやって来たのである。
 

みるみる近づいて来る南蛮の船に機嫌をよくした秀吉、

早速自らこれに乗り込んだ。
小型であっても二本のマスト、

船後方には人力による櫓でも漕ぐことの出来る実用的な船であり、
船首船尾には小型の大砲も備えていた。
 

穏やかな湾内をクルージングさせその快速ぶりに驚き、
また目を輝かせ隅から隅まで検分した秀吉にとっては、

まさしく垂涎の西洋船であった。
 

ところが船尾にある櫓を漕ぐ人々を見て、秀吉は驚愕した。
鎖につながれ苦役に喘いでいるのは、紛れも無く日本人達である。
 

問いただせば「犯罪人でございます。」コエリィオは何くわぬ顔で応える。
不機嫌な顔を取り繕い、秀吉は船を後にした。

その模様を側でつぶさに見ていた、キリシタン大名・小西行長、黒田孝高、高山右近、
秀吉の日頃の素振り、思念、行動を知っているだけに、各々不安でいっぱいになった。
必死でコエリィオに件の船を秀吉に譲渡するように説得した。
が、事の重大さを悟らぬ愚かなイエズス会士らは、
本国の許可無しでは出来ないの一点張りであった。
 

その9日後に、伴天連追放令が発せられた。
その中には、日本人奴隷売買に関する譴責が含まれていた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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