前田玄以の嫡男は、前田左近将監秀以といったが、
この秀以の素行甚だ悪く、親子は仲違いをした上、
秀以は出奔し、伊勢の朝熊山にて頭を剃って流浪した。
色々とこの親子の和解をさせようとした動きはあったものの、
前田玄以がそれらを全く受け付けず、
ついにはこの親子不仲の事、豊臣秀吉の耳にまで入ってしまった。
これを聞いた前田利家は、このように評した。
「徳善院(玄以)は、今の世の中に置いて分別者であると褒め讃えられているが、
彼の分別は間違ったものだ。
わしの息子である肥前守(利長)は若い頃、諸事素行について、
それはもう、わしの気に入らぬことが多かったものさ。
しかしあいつを安土に置いた頃、わしは越前府中にあったが、
そこから村井豊後、
近藤善右衛門、木村三蔵、小塚藤右衛門といった者達を、
みんな安土の肥前守の元に遣わし行儀などを大いに教育させた。
また肥前守の語る言葉も、きちんとしたことを語るよういちいち気を使わせた。
そのため世間の評判も高くなり、信長様の婿として選ばれるほどとなった。
これは全て、我らの教育の結果である。
父が子をそのように悪く育て、親子仲違いし主君の耳にも入る、
などと言う恥ずべき事態に至ったのは、
これはひとえに徳善院が無分別であったためである。」
この利家の言葉に周りの者達、何れもご尤もな事だと感じ入ったそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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