前田の両腕(一)
信長の美濃攻めのころ、若き前田利家の姿もその軍勢の中にあった。
しかし、信長の近習を斬っての逐電から帰参を許されたばかりの利家に従う者と言えば、
若党の長八郎ただひとり。
利家、
「とは言え、わしは初陣の折、
父上よりいただいた金子が未だふところにある。
いざとなればこの金で人を雇うなり、
武具を新調するなりして功名をあげてやるわ。」
長八郎、
「それは良きお心掛け。実は、わしもいささかの貯えを常に持っております。」
利家、
「ならばお互い、いくら持っているか比べてみるか。」
長八郎、
「応よ。」
利家が4両3分、長八郎が2両1分持っていた。
だが長八郎の知行など、利家の1/4も無い。
「すれば長八、割合で行けばうぬの方がわしより金持ちではないか!」
大いに笑いあった。
それから利家は立身を重ねたが、折に触れ長八郎に、
「2両1分を持っているか?わしは4両3分をまだ持っておるぞ。」
と話しかけ、長八郎こそが、
自分の一の家臣であることを周りに伝えることを忘れなかった。
長八郎も良く恩に答え、
浅井・朝倉との戦では利家をかばって銃弾を受けたり、
長篠の戦いで敵に足を斬られた利家のもとに駆けつけ、
これを救うなど利家の盾となり戦った。
やがて、利家の「又左衛門」より一字授かり又兵衛と名乗り、
さらに、村井豊後守長頼 と名乗り、利家の筆頭家老として天下に名を知られた。
長頼の子は利家の娘を妻に迎え、
その子孫は加賀百万石の重臣団「加賀八家」にあって、
松根城代として1万6千石を受け、代々年寄職を務めた。
前田の両腕(二)
永禄12年(1569)、信長は荒子城主・前田利久を、
「武者道少御無沙汰」の故をもって、
その弟である利家に代えることを命じた。
利家が荒子城の受け取りに向かうと、門は閉ざされ、
その前に立ちはだかる者がいる。
「織田の大殿がなんと言おうと、この城は利久様のもの。
利久様の命あるまで、城を明け渡すこと、まかりなりませぬ!」
前田家に代々仕える、奥村助右衛門であった。
利家も事を荒立てず、利久から譲り渡しの誓紙を取り、
筋を通して門を開けさせた。
助右衛門はなおも己の意地と忠義を通し、前田家を出て浪人した。
天正元年(1573)、
利家は、越前攻めに向かう家中に、見たような顔を発見する。
なんと、いつの間にか奥村助右衛門が、騎馬武者隊に紛れこんでいた。
利家は黙ってこれを見逃した。
助右衛門もこれに答え、刀根山の戦いで功を上げ、
正式に帰参が許された。
その後、末森城を文字通り死守したのはあまりに有名。
子孫は本家に1万2千石、分家に1万1千石と、「加賀八家」でも破格の待遇を受けている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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