天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、
五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。
このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、
還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた龍造寺胤信公に、
龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。
同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。
御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、
一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは、
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。
また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、
などと聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、
老臣達によってこの旨が決せられ、御家相続のためであるため、
気分の気持ちを押し殺して隆信公の室となられたのである。
だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。
このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、
全く聞き入れようとはされなかった。
後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、
最初から隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、
夫人に対し様々に讒言していたそうである。
隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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