延岡藩主・高橋元種は、秋月種実の三男にして、
高橋鑑種(宗仙)が大友家から追われた後に養子になった人物だった。
高橋家の正統論争は元種の養父・鑑種と、
鑑種追放後に高橋家を継いだ鎮種(紹運)の頃からあった。
その論争は、子の世代に当たる元種と戸次統虎・高橋統増兄弟の時代まで続いていたが、
九州征伐後、秀吉の裁定で高橋家の正統は元種となった。
代わりに統虎には養父・道雪以来大友家より禁じられていた、
立花姓の名乗りを許すことでバランスを取った。
時は移り慶長18年(1613年)、
元種の延岡藩は大久保長安事件や坂崎左衛門隠匿の罪で改易となる。
元種父子の身柄を預かったのは、父祖の代より因縁のある棚倉藩主・立花宗茂。
宗茂は義理の従兄弟にしてライバルでもあった元種を客将として厚遇している。
また幕閣に元種の赦免を嘆願したり、元種にもアドバイスをしたとされる。
しかし元種は、東北の気候が堪えたのか、
改易の翌年に病死してしまい宗茂の奔走は水泡に帰してしまう。
高橋元種の病死から6年後、
宗茂は柳川藩主・田中忠政が病死し田中家が無嗣断絶したことに伴い柳川に復帰する。
宗茂は取り潰された田中旧臣の登用を厳禁し、
取り潰された加藤忠広家や柳川時代の旧臣を登用した。
その理由について宗茂は、
田中忠政の父・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で、
大大名になったことを嫌悪していたからとされる。
かつて豊臣秀次家老時代に、三成が吉政の助命に奔走したおかげで、
切腹させられた前野長康・渡瀬繁詮・木村常陸介・服部一忠(小平太)たちと違い、
吉政はお咎めなしになっている。
恩人で友人の三成の助命を図った様子は見えなかったが、
この頃でもお互いそれなりの友情は抱いており、
吉政は薬を嫌う三成に韮粥を勧め与えた。
三成は太閤より譲られた名刀・石田貞宗を吉政に贈っている。
さて柳川城下は吉政が都市設計に長けていたこともあり、
田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて、
「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した。」と述べると、
宗茂曰く、
「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。
ボロ屋敷でも家の名には傷が付かない。
田中殿は立派な家屋敷を持ったが、その為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ず、
ついには滅んでしまった。」
と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし、
相手がDQNでもうまくつき合う立花宗茂だが、田中吉政は大嫌い。
田中吉政も物に恬淡で大らかで闊達と評されるが、
宮部長房への仕打ちに見られるように、
狡猾な部分が多々あり宗茂はそれを嫌ったのだろう。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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