武州岩槻の住人である太田三楽斎(資正)は、
幼少の頃より犬が好きでこれを飼っていた。
そして三楽斎は、同国松山城を保持しており、
己の守護を据え置いてこれを守らせていた。
ある時、三楽斎は、松山城に行って城代にこのように申し付けた。
「我が居城岩槻より、この城までは路次はるばるである。
もし俄の事が起きて人馬が通る道が封鎖された場合は、
この犬の首に文を付けて、追い放つべし。」
そう言って、岩槻に於いて飼い慣らしていた犬を五十匹、松山城に置いた。
また松山城で飼っていた犬を岩槻に置いた。
そしてある時、松山城に一揆殊の外に起こり、
北条氏康公もこれに連携して出馬したとの情報があった。
しかし松山城より岩槻に使いを立てようとするにも、
すでに道路は封鎖されており叶わず、難儀に及ぶ時、
件の犬の首に、竹の筒を手一束に切ってその中に、
書状を入れ口を包んだものを結びつけると、それを追い放った。
かの犬どもは片時の間に岩槻にたどり着いた。
三楽斎は怪しんで犬を見ると、首に件の文があった。
これにて三楽斎は直ぐに武士たちを引き連れて松山城の後詰をした。
一揆の者共はこれを見ると、
「この事が早くも岩槻に聞こえたというのか、不思議である。
誠に三楽斎は離れた場所の状況を悟る名将である。」
そう感嘆し、一揆は治まった。
その後、松山に於いて終に一揆が起こることはなかった。
三楽斎は武略の達人である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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