関ヶ原のあと、真田父子(昌幸、信繁)は助命かない、
両人とも剃髪して染衣を着し、高野山に赴くこととなった。
この時、安房守昌幸は57歳で、于雪と号した。
この真田の譜代の士に、窪田正助という者があり、
彼は昌幸に、供をしたいと強く乞うた。
しかし、昌幸、
「その志は嬉しいが、私が召し連れる人数は上より定められている。
である以上、我が心のままには出来ないのだ。」
それでも正助は、
「ならば、私は草履取り代わりに参ります!」
「それは尚宜しからず!士を草履取りにするとは、
後日の世の聞こえも如何か!」
これを聞いて正助は立ち上がり、
「殿には腰が抜けられたと見えました!
私をお役に立たないものと見定められましたか。
もはや存命しても申し甲斐ない!」
そう言い捨てその座から去ると、たちまち自害して果てた。
これを、昌幸は甚だ惜しんだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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