北条氏の拠点、小田原城内には「氏康柱」と呼ばれる柱があった。
後北条氏三代目当主の北条氏康が、謀反を企てた家臣を手討ちにした。
書院の間で切り捨てたため、
勢い余って柱に刀が食い込んでしまった。
氏康の家臣達は柱を取り替えず、
柱傷に蓋をして大切に保存し、機会のある事に衆目に披露して、
逆心の無い様に戒めていた。
時が移り、後北条氏は滅び関東には徳川家康が入封してきた。
小田原城は家康の家臣、大久保忠隣の居城となった。
「氏康柱」の話を聞きつけた家康は、
上洛の途中で小田原城に立ち寄り、
柱を見たいと忠隣に所望した。
だが忠隣は、
「その柱は書院があまりにも古くなっていたので、
建て替えた時に捨ててしまいました。
氏康の柱より、
武勇に優れると評判の鈴木大学の弓が玄関にありますので、
ご覧下さい。」
と答えた。
たちまち家康は不機嫌になり、忠隣を叱った。
「北条氏康と言えば、
早雲、氏綱と言う英傑の後を継ぎ関東八州に覇を唱えた者である。
若き頃は河越にて、
八千の兵にて八万の上杉軍を破ったと謂われる天下の傑物ぞ。
その氏康が斬り付けた刀傷の残る柱を若き武士達が見れば、
武道の励みになる。
それを古びたと言って捨てるとは何事か!
鈴木大学の弓など見たくも無いわ!」
忠隣は、ただ平謝りするのみであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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