隆景の死を悼む☆ | げむおた街道をゆく

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小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、

様々に想定して、あらかじめ自分の行動を定めておけば、

その時になって慌てることなく、粗略になることはないと言われていた。

これは古語に言う、

『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない。』

と同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、

少しのことであっても人と約束したことは、
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、

学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、

この時、

「急用のことである。慌てず静かに書くべし。」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、

才知を外に輝かせるような事はしなかった。

そのため彼を知らない人には、

最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、

ある時、安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。

この人の存在は毛利家にとって、船にとっての船頭であった。

彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、

それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。

しかし今後は、輝元殿自身の思案が大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、

その死の前に、あらかじめ尽く焼き捨てた。

そのため、一巻も今に残っていない。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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