小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、
様々に想定して、あらかじめ自分の行動を定めておけば、
その時になって慌てることなく、粗略になることはないと言われていた。
これは古語に言う、
『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない。』
と同じ意味であろう。
この隆景という人は普段から虚言を言わず、
少しのことであっても人と約束したことは、
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。
備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、
学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。
ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、
この時、
「急用のことである。慌てず静かに書くべし。」と言われた。
隆景はその気質、穏やかで静かであり、
才知を外に輝かせるような事はしなかった。
そのため彼を知らない人には、
最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。
小早川隆景が亡くなった後、
ある時、安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。
「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。
この人の存在は毛利家にとって、船にとっての船頭であった。
彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、
それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。
毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。
しかし今後は、輝元殿自身の思案が大事になるだろう。」
小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、
その死の前に、あらかじめ尽く焼き捨てた。
そのため、一巻も今に残っていない。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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