慶長6(1601)年、最上義光が酒田攻めで庄内を上杉軍から奪還すると、
北館利長には、田河狩川城と3000石が与えられた。
しかし利長が新領に赴くと、
目の前には痩せた土地と広大な葦の生い茂る原野しかなかった。
利長は土地の者に尋ねた。
「近くに川もあれば人も居るのに、この荒れ様にはなにか理由があるのか?」
農民「水が足り無いのでござえます。」
利長「川ならあちらに流れているではないか?」
農民「お侍さまちょっとええだか?一緒に川まで来てくんろ。」
利長は農民らと川へと向かった。
農民「見てわかんべ。」
利長「…川が田畑より一・二間(数メートル)も低い処を流れているのか…。」
農民「そんだけじゃなく、ここいらは台地(河岸段丘の上)だし、
土もすぐに水を吸うてしまって水が全然足りんのでごぜえます。」
利長は水をどうにか出来ないものかと、
毎日毎日領地のあちこちを朝から晩まで歩き回った。
道で見掛けた農民に、
「水は無いか?なにか良い知恵は無いか?」
と聞き込む事から、
領民らは、「おい、また水馬鹿の殿さまが来たぞ。」
と陰口を叩いた。
利長「水は高い処から低きに流れる。狩川よりも高い処に豊富な川や水はないか…」
利長「お山(月山)なら雪溶け水や川はあるが、十里(数十キロメートル)以上離れておる…」
利長「途中には沢や丘陵もある…どうしたらいいんじゃ…」
利長は櫃に絵図を描いては閉まい、閉まいは出しては描き直し検討を繰り返した。
同時期に山形から庄内までを手中に収めた義光は、
最上川の水運の向上を図るために川底の掘削や、
難所の整備を進めていた。
利長、「最上川治水工事の一環として、大殿(最上義光)のお力を借りられれば…。」
慶長16(1611)年、北館利長は櫃に狩川の絵図と工事の見積書を詰め、
義光に月山山麓から数十キロに渡る、農業用水の潅漑工事計画を願い出た。
最上義光、
「これだけの細かな資料を集め、さぞ大変であったろう。」
利長、
「水さえあれば庄内は更に豊かになります。何卒工事の許可を頂けませんでしょうか?」
義光、
「みな(万石取りの最上重臣)を集めて議題とする。そち(利長)も席には参加せよ。」
義光、
「…という訳で、利長から治水と潅漑工事の計画が出されておる。
みなはどう思う?遠慮はいらん。申してみよ。」
志村光安、
「仮にやるとしても莫大な予算が必要となりますが、
それに見合うだけの結果は出せるのでしょうか?」
下吉忠、
「最上川の整備ですら数年に渡る工事を継続中です。
戦災で荒れた寺社の復興も残っておりますし、
今やる必要があるのでしょうか?」
楯岡満茂、
「人手の確保も簡単ではありますまい。」
難工事が予想されたため反対意見も多かったが、
義光の側近の新関久正が利長の労苦を汲み反対派を説得し、
翌慶長17(1612)年3月、月山立谷川治水工事の命令が発動。
工事監督に北館利長、相談役と奉行に志村光安と新関久正が付けられた。
沢には水路の部分だけ盛り土をした土橋が引かれ、
丘陵は掘削されたりトンネルが設けられた。
同年7月、4ヶ月の期間と10000人以上の人足を注ぎ込み、
40キロにも渡る潅漑用水工事が完成。
「現場の河風は身に凍みるだろう。」
と義光から贈られた黄色い綿帽子をかぶり、杖をついて工事を指揮した、
北館利長の念願が叶い、狩川3000石は十年ほどで石高が30000石にも飛躍した。
今でも綿帽子をかぶった北館の像が大堰と米処庄内を見守っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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