最上義光は、豊臣治世の折りに上方にあり、
山科言継、細川幽斎、里村紹巴、古田織部らの文人と交流し、文学や茶を学んだ。
また京に滞在中に、
源氏物語の研究者である一花堂乗阿に直接指導を頂き、切り紙(免許)を許された。
それからも義光は乗阿を師と仰ぎ交流を深め、
慶長8(1603)年に乗阿を山形に招く事に成功した。
乗阿は赤松氏の出で、甲斐源氏の武田信虎の養子とも言われ、
なかなかの歳ではあったが義光の礼に応じ山形を目指した。
中途の旅で落馬をして腰を痛めて駕籠に乗り、
ついに越後本庄を経て鶴岡から山形へ向かう。
乗阿、
「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、
見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、
聞きしにはまさりはベりぬ。」
「(山形は)見る目かがやくばかり。」
「又もとの都のうちに帰り入るか。」
田舎とばかり思われた出羽は義光の街普請で活気に満ちていた。
そんな乗阿を迎えに、義光自身が山形城の三ノ丸外まで赴いていた。
乗阿、
「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地。」
乗阿は山形城そばの光明寺の住職となり、
大石(知行)の他にも事あるごとに米や布を持ち切れぬほど給せられ、
連日義光やその家臣団に勉強会や連歌の集い、
説法等に声を掛けられ持て囃されたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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