天正十二年、最上義光は夏から天童攻略のため調略にかかり、
延沢満延はじめとする天童八楯らが次々と寝返った。
そして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、
いよいよ天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、
深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、
天童衆たちもまたあるいは討たれ、またほうぼうの寺に逃げ込み、
そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、
最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。
さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、
そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。
伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…。
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。
いかがなものか。城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。
おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ。」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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