寛永13年(1636)4月20日、
江戸への参勤に出立した伊達政宗は、その乗物の近くにホトトギスが現れ、
初音を聞かせたことを大いに悦び、
その晩、片倉小十郎重綱の居城である白石に宿泊した。
小十郎重綱は、種々の珍物を整え大いに饗したが、
この頃小十郎に対し悪心を抱くものが在り、
小十郎の身の上に悪しきことが有ると書き立て、
目安に整え申し上げてきた。
政宗は内密に調べたが、しかし全て事実無根であることがわかり、
かえってその讒人の心を蔑んだ。
そして、国に讒人あればその国は治まり難いことを深く悲しんだ。
翌日、小十郎が膳をさし上げると、政宗は一層機嫌よく酒を出させ、
かれこれの人々に御盃を下された。
その頃、小十郎は、外孫を自分の養子とし、三之助と名付けたが(後に小十郎景長)、
この子が御目見得仕り御寄場に畏まっていたのを、
南次郎吉という御小姓衆が政宗のご機嫌を伺いながら、
「冥加のため、御盃を三之助に下されませんでしょうか?」
と申し上げたが、聞こえぬ様子で他の者と四方山の話をしていた。
ややあってから南は再び、
「三之助はいかが?」と申し上げると、
政宗は彼の方を向いて、
「以前にも言い、又も言う。そういうふうに声をかけるものではない。
お前などに気をつけてもらうような私ではないぞ!
あの子に酒を与えるのは何でもない事だが、
敢えてそれを控える仔細があるから、そうせぬのだ。
小十郎は子を持たず、あの孫を取り立て、
誠に無事に育つかと心配に思っているため、片倉の家では下々まで、
あの子を手の中の珠のように、労り育てていると見える。
まあ、実際に4つ5つの幼児であるから仕方がないのであるが、
前にあの子が私の前に座って対面した時は、
小十郎の心配をよそに、見苦しく、苦しそうであった。
そんな子を座敷に呼び出して、盃の取り回しなどさせたら、
幼児であれば、どれだけ難儀に思うだろうか?
また余所からは、見苦しき有様であり、
あの小十郎の子には似合わぬなどと言い出すものも有るだろう。
それは小十郎に為悪しく、恥を与えるようなものだ。」
と仰った。
さて、御立ちの時、政宗は三之助を乗物の前に召し寄せて、
自ら挿していた脇差を脇差を与え、
それを自ら、三之助に挿してやり、
「さてもさても、小十郎は果報者かな。
これほど良き子は、良き者に預けて育てるように。」
と言った。
そして小十郎重綱を乗物の中に引き入れ、
「其方のことを悪しく思うものがあり、
十度にわたって種々目安を以って私に讒言を行った。
しかし、それは全て偽りであり、疑うにも及ばぬもので、打ち捨てた。
其方が、例え憎しみで如何様に言われようとも、
私がある限りは何事も心安く思ってほしい。
ただ、讒言をするような者が、国の中にあることこそ嘆かわしい。
私とて、これから何年命を長らえられるであろうか。
私が死んだ後は、よろず身を慎み怒りを抑え、
国の久しきことを心掛け、ひとえに計らってほしい。
奢りは身命を失う根本であるぞ。
もし明日何事かあっても、其方と私があれば、
老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな。」
これを聞くと小十郎は感涙を流した。
政宗もまた涙にむせびながら白石を発った。
これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
そして、政宗より脇差を頂いた三之助は、
後、伊達騒動で混乱する仙台藩を見事に取り仕切り、
彼の活躍によって、改易を免れるのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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