慶長5年、徳川家康による上杉景勝征伐が勃発しようとする中、
伊達政宗は急ぎ国元へと下る。
それを知った通り道となる相馬家では、一族家中の者共集まり、対応を評議した。
相馬家は政宗への恨み深く、
特に当主・相馬義胤の弟隆胤を討たれ、その弔い合戦も出来なかった無念も有り、
今こそ好機、相馬領に入ったところで政宗を討ち果たそう、
との論が大勢を閉めた。
が、家老の水谷式部が進み出て言う。
「なるほど、ここで政宗を討ち果たすのは容易なことでしょう。
ですが愚意を申し上げますと、政宗がここを通るのは、
景勝への対応のためであり、
きっと家康公の味方としての行動であると考えられます。
これを討ってしまえば、後のためのいかがかと存ずるのです。
それは、治部少(石田三成)は小身であり、
その家臣も昨今に成って召抱えた侍であるからです。
例え諸大名が彼に味方したとしても、結局は強に付き弱は捨てられるものです。
であれば、末々覚束ないと言うべきでしょう。
一方の家康公は、老巧の大将であり、大身であり、
家中にも歴々の武勇巧者が数多くあります。
であれば、結局御利運は家康公のものとなるでしょう。
その上(義胤の嫡男である)利胤公は今も在京されており、
その身の上も心配です。
よって兎も角、今政宗を討つというのは如何かと考えるのです。」
相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。
さて、政宗は400騎ほどで相馬の領内に入った。
そして宿舎として涼ヶ森の花光院を提供された。
政宗はこの山寺の四方に鉄砲・弓・槍で武装した足軽を三重に配置し、
これに物頭を付け厳重に警備させた。
さらに近隣の村にまで人を配置し警戒に当たらせた。
ここで相馬義胤より政宗に、兵糧300俵・大豆100俵が贈られたが、
政宗は用意があるとこれを断った。
相馬方では政宗への接待役として、出田与三右衛門が置かれた。
さて、その夜半、寺の中で馬が放れ駈け出した。
四方の警備の者達が驚き騒ぎ、混乱して寺の前の田地に飛び込んだり、
山に逃げたり、折口に落ちたりという有様となった。
この騒ぎの中、出田与三右衛門は、小者一人だけを連れて政宗の宿所へ向かうと、
庭中に出ている侍は一人もなく、政宗は側に若侍一人だけで、
縁側に薙刀を持って立って不審そうに状況を見ていた。
与三右衛門は縁近くまで進むと、
「寺の中で馬が放れたために騒いでいるだけです。
少しもお気遣いなされるものではありません。」
と申し上げた。
政宗はこれを聞いて、
「与三右衛門がここに詰めておったか!大義なり!」
と声をかけ、騒ぎが静まると盃を与えられた。
この時、政宗の宿所には、料理人や役者めいたものなど多く居たのであるが、
この騒ぎに、「騒ぐな!様子を見ろ!」
と言われたのだが、聞かずに散り散りに逃げ出したのだという。
又、庭の方にも竹もがり(障害物)を結び、これに槍100挺を立てかけていたのだが、
その立てかけが悪かったのか、しばらくすると一斉に倒れ、
この音でまた騒ぎが起こった。
この時も、政宗は縁側まで出て、侍4、5人とともに様子を見守っていたが、
出田与三右衛門がいち早く気が付き、
「警護の槍が倒れただけです。」
と説明すると非常に喜び、再び盃を与えられた。
その上で、
「お主が今後、もし相馬家を離れることがあったら、いつでも伊達に参れ。」
と言って、自筆でこの旨を書きその紙を与えた。
しかし出田与三右衛門はこれを隠し、後々まで人に見せることもなかった。
また、後日、与三右衛門がこの時のことを思い出して、
「混乱した中でも政宗様のご様子は、流石大将のご気性が備わっておられた。」
と、回想したそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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