慶長4年(1599)の事。
長岡越中守殿(細川忠興)のとある家来の従者である徒侍が、
京から伏見へと、弁当を持って向かっていた所、
藤ノ森において伊達越前守(政宗)の徒侍と喧嘩となり、
細川家の徒侍は伊達家の徒侍に斬り殺された。
伊達政宗の屋敷は藤ノ森の近くにあったため、この徒侍は屋敷に入り、
弁当を持った者を喧嘩で殺した事は、伊達屋敷より公儀に報告された。
このことを知った細川忠興は、伊達政宗に事件の詳細の説明を要求し、
また犯人を渡すよう、二度にわたって遣いを送ったため、
この事件は両家の紛争となった。
この時、細川忠興に味方したのは、
家康公の家臣の本多中書殿(忠勝)が遣いを送ったのを始め、
木下右衛門太夫殿(木下延俊)、藤堂和泉守殿(高虎)、
加賀大納言殿(利家)、同肥後守殿(利長)等も、
家老などを忠興のもとに派遣した。
彼らは、
「政宗がこちらの要求に納得しないならそれで構わない。
こちらから伊達屋敷に乗り込む。」
と決め、事態は大方、両家の暴力沙汰になると思われた。
一方、伊達政宗の方に味方したのは、最上殿(義光)、佐竹殿(義宣)であった。
これにより京伏見の間は以ての外の騒ぎとなったが、
ここに金森出雲守殿(可重)、桑山左近殿(貞晴)の両人が扱いに入り、
政宗からこの事件の科人を、金森出雲守の家老、西脇左門が請け取り、
そこでこの者が成敗されることにより、双方の埒が明けたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!