穴沢新右衛門俊光といえば、
蘆名家の対伊達最前線たる岩山城を居城とし、
輝宗、政宗と長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。
さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、
そこに馬場を作って、毎日馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、
鷲羽の尖り矢を手に取ると、その領地である大塩をただ一人で立ち出て、
山伝いに桧原へと侵入。
そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の影に隠れ、
政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば、一矢で仕留めんと待ち構えた。
その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。
が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、
彼は三度馬を走らせたが、その度に馬場の中頃で馬を返し、
ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。
やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、
穴沢俊光は筆を取り出して、矢に、
『さても政宗は御運の強き弓取りである!
今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を進上つかまつったというのに!
穴沢善右衛門尉』
と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。
翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、
「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」
と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、
自身は米沢へと帰っていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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