数代にわたって秋田氏に、圧迫されてきた比内浅利氏。
安東愛季には、当主・浅利勝頼を謀殺され、
嫡子の頼平は津軽為信を頼って浪々の身となる。
後、為信と実季の妥協によって比内へ帰還したが、
身分は秋田氏配下になってしまった。
しかも、時は豊臣秀吉が奥羽まで従えた、ちょうどその頃。
中央に秋田氏配下と認められてしまい、独立の機会は遠のいた。
さて、全国の大名には豊臣への奉公義務があったが、
秋田からは杉材や鉱物が納められていた。
頼平も当然負担していたのだが、ある日これが馬鹿らしくなった。
「せっせと太閤に貢納しても、全部実季の功績になるだけだ。
なんで仇敵の手柄を稼がなきゃならんのだ。」
頼平、豊臣への負担分をごまかすようになった。
サボタージュである。
当然、すぐに実季にばれた。
「ほう、津軽の顔を立てて戻してやったが、そういう態度なら容赦はいらんな。」
実季は税金の「強制徴収」を始める。
比内へ進攻し、浅利軍を攻撃、ついでに村々から略奪を行ったのである。
浅利方は、後に被害を訴えるため報告書を作るが、それにはこう書かれている。
「この村では家が七戸しかなくなった。
以前は二十戸の村だった。秋田軍が撫斬、放火した。」
「この村は十五戸あったが、今はもうない。
荒れている。秋田軍が放火した。」
秋田・浅利紛争は、豊臣政権の法廷に持ち込まれるが、
実季勝訴の判決とともに、頼平は急死した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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