九戸政実の乱の際、
九戸党に味方した者の中に、工藤業綱という者が居た。
彼は銃の名手であり、九戸没落ののちは一旦津軽へ逃亡したが、
南部信直への恨みから、信直の居城となった福岡へ潜伏し、
これを討たんとその機会を窺っていた。
天正20(1592)年の正月12日のこと。
正月の賀儀を終えた南部信直は、
その日の夜半、わずかな供を連れて、
窟の観音(岩屋観音堂)に詣でることとなった。
それを知った業綱は、銃を持って待ち伏せる。
燈灯を持った間盗役(忍者)の唐式部を先頭として、
信直が供の葛巻覚左衛門・大光寺左衛門らと下堂する時、
そばを流れる白鳥川の対岸から大声で信直を呼ばわる声がする。
業綱だ。
「我は九戸左近政実を頼りし、工藤右馬助業綱と言う者なり。
それなるは信直公と見えたてまつる。
ただ今九戸が仇を報ずる間、お覚悟めしませ!」
供の者達が矢先に立ちふさがり、
「燈灯を消せ!」
と狼狽する中、
唐式部は冷静に、囮となって飛び出し、
「大丈夫だ、君はここにおられる!」
と燈灯を振り回して大声で護衛に呼びかける。
業綱は銃を持ち直して放つ。
弾は燈灯に当たってこれを撃ち落としたが、
信直はその隙に危地を脱出、福岡へ帰城した。
その日はあいにく雪が降っていたが、捕縛の為に数百人が集まり、
遂に業綱は生け捕られた。
信直の前に引き出された業綱は、
「九戸の仇を討つ為に君を狙いたてまつること既に十余度、
天運も既に乾いてこの次第となりました。
早く命をお召しください。」
と請うた。
信直はこの優れた武士を殺すのが惜しいと思ったか、
「旧怨を捨てて我に使える意があるなら、すみやかに命を許し相伝の家人に列し、
長く恩顧を与えよう。」
と言い、業綱を許して二〇〇石・三十人の足軽の頭として取り立てた。
家臣達はこの厚遇に、
「お屋形様のご思慮とはいえ、いかなることか。」
と怪しんだが、
帰服した業綱はその後君臣の礼を守り、忠義を尽くしたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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