津軽に残った石田三成の血筋☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の戦いで、津軽為信は東軍に加わったが、

嫡子の信建は大坂城にいて、豊臣秀頼の小姓を務めていた。

 

西軍敗れるの報が伝わると、

小姓仲間だった石田三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。

重成は後に杉山源吾と名を変えた。

子孫は家老も出す藩重臣となり、

通字は「成」を使った。

墓などでは豊臣姓を名乗った。

信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
 

彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。

直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、

辰姫は側室に退き、関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして、

大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。

妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。

満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、

福島家からの連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 天運時至れり・津軽為信、目次

 

 

 

 

 

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