天正16年、津軽為信は久しく病に臥せっていたが漸く平癒した。
そして3月7日に、平癒の賀として城中で大いに饗宴をおこなった。
為信の伴食は達戸左京、洞内浄庵、下田南一、下館九郎兵衛であった。
為信は家臣たちを率い、妻とともに自ら料理した。
そして配膳したのは娘の久子であった。
饗宴が終わり、翌日、娘の久子がにわかに病を発して死んだ。
13日、饗宴に伴食した者達、および為信の妻が死んだ。
16日、久子の夫であった南部政信が死んだ。
ここに及び、人々は騒々しく物議し、みな為信による毒殺を疑った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!