天正16(1588)年、
地安(千安ちあん)十五里ヶ原で、東禅寺・最上連合軍を敗った本庄繁長は、
庄内一帯を攻略し、余勢を勝って最上川を遡り、
一気に最上義光の本城である山形を突こうとした。
繁長には、旧大宝寺領の和田源蔵、田川飛騨、鮎川宮内に近隣の余目源次郎等も加わり、
数千もの兵が山形から北へわずか十里ほどの東根城まで到達した。
東根城は沼沢と谷地の中の高台に築かれた浮城で、
ここには東根小次郎といった者が兵200と詰めていた。
戦いは数に勝る本庄軍の優勢の内に運んだが、東根勢は寡兵で城を支え、
窪地に伏せた兵を巧みに展開し、散兵(ゲリラ戦)で本庄軍を防いだ。
本庄軍は味方の数を頼み勢いで東根城を則(乗っ取ろ)うとしたが、
その時山形の最上義光が東根へと援軍に出した鮭延秀綱率いる遊撃隊と、
林崎や長瀞の国人たちの軍が突如として、
本庄軍の背後や側面から繁長の本陣を突いた。
不意を突かれた本庄軍に、
今度は正面から東根小次郎勢が残兵を率いて総攻撃に出た。
この戦いで繁長自身はなんとか場を切り抜けたものの、
嫡子本庄勝重(本庄勝繁)が、最上方の田村助左衛門の槍に突かれ落命し、
繁長の侍大将三井某も戸部三郎左衛門に首級を取られ、
余目源次郎も東根勢に討たれた。
本庄軍は馬や兵糧の多くを戦場に遺したまま潰走した。
後に繁長は、
「敵(最上勢)を侮ったために、敗れずに済むいくさで多くのものを失った。」
とこの戦いを一生の不覚と恥じたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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