泗川の戦いにて、島津軍は当初、お得意の釣り野伏せりで明軍を誘いこむと、
釘や鉄片を大砲でぶっ放したり、留守火縄の簡易地雷で明軍を迎撃した。
本土からの大量の資材があった為に出血サービスで作戦を実行する事ができた。
しかし、島津史上最大火力の釣り野伏せりは明軍に通用……しなかった!!
そもそも釣り野伏せりとは、敵軍が恐慌しないと成功とは言えない計略。
敵の指揮崩壊がなければ寡兵を分けて大軍に勝てる道理など無い。
そう、今回はあまりに明軍が多すぎて中央まで指揮崩壊しなかったのだ。
そして明軍のターン、圧倒的大軍にて島津軍を泗川倭城に押し込むと、
火器の本家本元の面目躍如、戦域に大量の爆薬を投入してきた。
大軍だけでも島津軍を圧殺出来るのに更に大量の爆薬による火計。
迎え討つ島津軍は此れに応戦出来る術などな、
く泗川倭城は風前の灯火となった。
その時だった。
明軍の火薬庫で大爆発がおこったのだ。
陣僧の佐竹光明坊、若武者の瀬戸口弥七郎ら2名が、
明軍の火薬庫に特攻したのだ。
特に瀬戸口弥七郎は、明軍に斬られ射られるも、爆薬壺付近に近づくと、
自身にくくり着けた爆薬を引火させ自爆して果てた。
明軍の爆薬庫はたちまち連鎖誘爆を起こし、軍は恐慌状態に陥った。
皮肉にも大量に用意した爆薬が、裏目に出てしまったのである。
そして島津軍が指揮崩壊した勝機の瞬間を逃すはずがなく…。
忠恒 「ずいぶん待たせちまったな、俺の番だ!」
こうして島津軍は、泗川にて圧倒的寡兵による歴史的大勝を得たのだった。
島津義弘は帰国すると彼らを島津家の守り神である狐に例え、
若武者の瀬戸口弥七郎(享年19才)は、その白糸縅の鎧より白狐の化身とし、
陣僧の佐竹光明坊(生存)は、赤糸縅の鎧より赤狐の化身として、
稲荷神社に奉り、歴代藩主はこれを氏神として信仰した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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