天正6年7月6日、
島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、
伊集院忠棟を大将に大軍を送ったが、
石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、
島津勢は500が負傷、また多くの討ち死にを出し終に撃退された。
同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、
さらなる大軍を以って、再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、
元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、講和を受け入れ城を開城することと決まった。
講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は、
城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った。
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。
主従の礼を取ろう、ということである。
しかし長倉、
「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」
そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。
この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、
義弘はそれを制して、
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に、
「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」
「豊後へ。」
そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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