天正3年(1575)、
長篠の戦いに敗北した武田勝頼に対し、
重臣である高坂弾正は、五ヶ条の意見を申し上げた。
一、駿河、遠江は北条氏に割譲し、北条氏政の幕下となって、勝頼公は甲州、信州、上野三ヵ国にて、氏政の先鋒を勤める、という姿勢を見せることが尤もと考えます。
一、その上で、北条氏康の御娘子がおられると承っております。これを武田家に迎え、
勝頼公は北条氏政の妹婿となられるべきです。
一、木曽氏を上野小幡に、小幡上野を信州木曽にそれぞれ転封なさるべきです。
一、現在、足軽大将が見な人数持ちとなっています。長篠で討ち死にした馬場、内藤、山縣の三人の子供らを初めとして、みな同心を取り上げ奥近習になだれ、小身にて召し使われるべきです。もし明日にも私が果てましたら、息子の源五郎も小身になされ、私が現在従えている同心を、誰なりともお預けなされようと、尤もなことだと考えます。
一、典厩(武田信豊)、穴山殿(信君)には腹を切らせるべきです。穴山殿の処分を典厩に仰せ付けられ、その後典厩の処分を私に仰せ付けられるのが良いでしょう。
このように申し上げたが、勝頼はこれらに首肯せず、
五ヶ条のうち、北条氏政の妹婿に成ることだけには同意した。
また長篠で戦死した諸将の家に介入したのは、
真田源太左衛門の跡に弟喜兵衛(昌幸)を据えたばかりであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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