高坂昌信の臆病分別☆ | げむおた街道をゆく

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天正2年。

武田勝頼は、徳川方の高天神城を降伏させ、遠江の城東郡を手に入れた。

 

これについて甲府御館で御祝いがあり、召しだされた侍大将衆に盃が下された。
高坂弾正(春日虎綱)は、盃を下された後、立ちながら長坂長閑に向かって言った。

「武田の御家滅亡と定められた御盃はこれである。」

「弾正の言っていることは話にならない。」
長坂は言い返した。

その後、内藤修理と高坂弾正の共に、3年の内に当家滅亡と発言した。

 

人々がその理由を尋ねると、内藤も高坂も同じように語った。
「東美濃において数カ所の城を落とし、その上高天神城を落城させ、

城東郡を手に入れられた。
しかしこの成功のため勝頼公は、家老衆の意見を御取り上げすることがなくなり、

長坂長閑、跡部大炊介の言うがままになってしまった。
やがて信長家康の両軍を相手にして、勝頼公は無理な御一戦を遂げられることに成るだろう。
その時は面々方々、みな討ち死にして、その後武田家滅亡疑いない。
この原因は、東美濃、遠州城東郡の両所における御手柄、

しかも1年の内にこのように成った故である。」

人々はこれを聞くと、「高坂、内藤は臆病分別である。」と笑った。

 

さらにこの話は、長坂、跡部より勝頼に伝えられ、

勝頼も内々に、高坂、内藤を悪しく思うように成った。

しかしそうは言っても信玄以来の侍大将であったため、高坂は勝頼の近くに参り、

周りの人を下がらせて意見を述べた

「東美濃を、信長の子息でこの甲府におられる御坊に下され、

彼を誰か近き御親類衆の聟になされ、信長と和平を結び、

また城東郡を、家康の弟源三郎が信玄公の時代に人質に召し置かれていましたが、
彼は甲州より脱走しました。

しかし和平の扱いをする上は万事を差置き、

信玄公の御息女である、おきく御料人、

信玄公はこれを伊勢の長島に嫁がせると決めて居られましたが、

この御料人を家康の舎弟へ嫁がせましょう。

こうして信長、家康と和睦した上で、北条に対し攻めこむべきです。

そうなれば家康は領地を返還されたことを信長からの恩以上に忝く思い、

加勢を申し出るでしょうし、更に信長も、都の敵に対処するのに、
当家との御無事を喜び、加勢を差し寄越すこと疑いありません。

 

こうして当方の所領する国に、小田原北条氏の持ち分を加え一つに御支配なされれば、

以後勝頼公の思し召しに叶わぬことなどなくなると、私は分別しております。」

後で勝頼はこの高坂の申し出について、長坂長閑に相談した。

長坂はこれを聞くと、
「勿体なき弾正の分別違いです。都へのお望みをなくして向かってくる敵と和睦し、

今まで味方である北条殿を敵にするというのは、

全く心得ることの出来ない義であります。
取った国郡を人のほうに渡すというのは、

下劣な喩え話に『猫に鰹節を預ける』などといいますが、
おおかた弾正の分別もそのたぐいの事です。」

勝頼は長坂の判断を尊重していたので、これにより弾正の意見を取り上げることはなかった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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