その日、秀吉は勢を分けて、丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、
信長公御父子を始め本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、
それより岐阜へ赴いて、信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。
この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も来会せられ、
丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、
秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、織田家の正統なので主君と定めた。
信雄・信孝両人を後見とし、
信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、
三法師丸を安土に移した。
また三法師丸が15歳になられるまでは、
信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、
尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて柴田、
播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、
丹波は、
以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)に授けるとのことだったという。
これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。
若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、
3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。
何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も加えること及ばなかった。
丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。
柴田勝家は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、
今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、
または衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。
このため丹羽は秀吉に囁き、
「ただいま四海は大いに乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ。」
と言った。
秀吉は大いに笑って、
「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず。」
と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、
勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとしているとの由が聞こえたので、
秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。
勝家はこれを聞いて、
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、
「秀吉はどんな計略を設けているだろう。」
と大いに気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。
これを聞いて秀吉は大いに笑い、
「私が何の遺恨あって勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ。」
と言って養子の次丸を人質に遣わすと、
勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。
この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を察した。
賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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