当時の武将間の呼び名について。
越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、
越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた。
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、
前田利家が争いを納めようとした。
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、利家が仲裁に入っているのに、
「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった。
少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、
寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子。
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、
戦国の時代はより濃厚だったのでしょう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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