天正14年(1586)、羽柴秀吉の九州役に従軍した吉川元春は、
黒田官兵衛の饗応を受けその場へ行くと、出てきたのは鮭を調理した御馳走であった。
この鮭料理を前に、元春、
『…鮭はその性甚だ熱く、血を破壊すると言う。
今これを食せば、持病である瘡忽が再発してしまうかも知れぬ。』
元春、冷や汗である。しかし、
『だが黒田はこの魚を主味(メインディッシュ)として饗してくれている。病気に害があるといってこれを断り食わないというのも、無骨なやつだと思われるだけでなく、
我が主人輝元のためにも良くないことだと思う。どうしよう?』
元春は思い悩んだ。そして、
『今これを毒であるといって食わないというのは、黒田官兵衛に対して遠慮がないと思われるか、もしくは私が迷惑に思ったのだと、黒田は思ってしまうだろう。まあ実際迷惑なんだが。
ええい、こうなったら!』
少しだけ食べた。
そして酒も数献廻ったあと、官兵衛が言うには「九州が静謐となるのも遠いことではありません。そうなると筑前一国は元春殿、あなたにあてがわれると、これは殿下のご内意です。」
これに元春も「かたじけなし。」と謝辞を述べ、
やがて饗宴も終わり退出し、その夜、元春の瘡忽が大いに痛みを発し、
日を追うごとに病は重くなった。
これを知った毛利輝元は、医師の徳琳を遣わした。
小倉城詰の丸で徳琳と対面した元春は、近習に助け起こされると彼を近づけ、
輝元への伝言を頼んだ。
「私もこのごろは少し回復したようで、近日中には輝元様と直接対談もできるだろうが、
先にあらかじめ、御辺に言っておこうと思う。
私の言うことをよくよく聞いて、輝元様に申し伝えるように。
今度九州退治のため、殿下がご出馬を仰せになられ、
これによって我等三家(毛利・吉川・小早川)は、先鋒として当国に出張しました。
であれば、今回は輝元様は、今まで戦場に赴いたことと同じように考えられていては、
甚だ宜しくありません。
何故かといえば、我々が各地で秀吉公と対陣していた当時は、輝元様を本陣として、
隆景や私が先陣として進み、士卒を下知し手を砕き攻戦の功を励まし、
輝元様はただ帷幕の中に在って作戦を運用していればよいだけでした。
ところが今回はそれに引き換え、殿下が総大将であるので、
輝元様は先陣の戦将となって、今まで隆景や私が輝元様の先陣として戦を決したように、
輝元様自身がそう心得、しなければなりません。
これは言わずにはおられない事でした。
それから次に、肥前の竜造寺政家(龍造寺隆信嫡男)の事です。
彼は未だに殿下に属していません。
しかし現在の六十余州では、皆が殿下のために働いているというのに、
政家一人がどうして独立を保てるものでしょうか。
彼もきっと、殿下に和を請い安堵したいと考えているはずなのですが、
そのための良い縁故を持っていないために、空しく歳月を過ごしているのです。
そこで、幸いに当家は、龍造寺と隆信以来の良好な関係がありますので、
輝元様から使者を出し、和平の儀を進め、殿下にも推挙すると言い送れば、
政家はきっと喜びに耐えず了承することでしょう。
龍造寺を味方に引き入れれば、この九州征伐における一方の功の助けとなるでしょう。」
このようなことを聞き終わると、徳琳は退出した。
しかしこの後も元春の病状は日々悪化し、同年11月15日、ついに逝去した。
享年57歳であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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