天正二年、関東制覇を目指す北条氏政は、
いよいよ関東中央部最大の拠点、下総関宿城の攻略にかかった。
この情報を得た越後の上杉謙信は、すぐさま出陣を決意、
常陸の佐竹義重や、下野の宇都宮広綱にも出兵の命を下した。
越山をした上杉軍は怒涛の進撃をした。
新田金山の猿窪城を陥れると利根川を超え、
鉢形、成田、足利、館林一体を荒らしまわり、
赤石(群馬県伊勢崎市)に布陣した。
が、佐竹、宇都宮の軍が、いつまでたっても参集しないのである。
謙信の元からは、何度も何度も催促の使者が送られたが、
宇都宮方は、
「出陣の際は佐竹殿と共同で出ると約束していますので、
佐竹殿が出陣しなければ、我らも出兵できませぬ。」
との返事。
そして肝心の佐竹は、散々言を左右した挙句、
「我々は、謙信様からの血判の誓詞がなければ出陣できない。」
と言い出した。
謙信は既に関東管領であり、それは佐竹も認めている。
その関東管領の命令権を、佐竹は事もあろうに疑っているのだ。
関東管領の権威に係わるだけに、これには簡単に同意できない。
しかし、そうこうしているうちに、関宿城からは、
「このままでは落城も間もなくです!」
と、救援を求める必死の書状が相次いだ。
佐竹、宇都宮の協力無しでは、関宿救出は無理があった。
しかたなく謙信は、血判誓詞の提出に応じた。
苦悩の選択であった。
が、ここで事態は急変する。
なんと関宿城が、北条との交渉に応じ、無血開城に同意したとの情報が入ってきた。
義重の狙いはこれであった。
謙信を出兵の問題で足止めし、時間稼ぎをしている間に、
密かに関宿城と接触し、北条の求めに応じて開城するよう、
説得していたのである。
確かに北条の拡大は脅威である。
だが関宿は佐竹にも宇都宮にも領土的な利害関係はなく、
両家とも、そのような関係の無い土地のために、
しかも、おそらく激戦となるであろう戦に、
家中の者を動員することを嫌っていたのだ。
義重の事情とこの策略を、謙信は全く見抜けなかった。
上杉勢は憂さ晴らしのように、下総一帯を荒らしまわった挙句、
成す所無く上野の厩橋に撤退した。
その日閏十一月十九日は、北条との約定により、関宿が開城された日であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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