武田信玄公が他国の大将に対して語られる時は、よろずその作法を聞かれた。
それは実際にその大将と戦った時、
この方の勝利をどう得るかという工夫をもっぱらに考えられた故である。
永禄元年の春、上杉謙信は、信濃の犀川が雪解け水で増水しているにもかかわらず、
無理に馬で乗り込んだため、彼に従う兵士を多く殺した。
しかもその中には良き侍、覚えの武士もあったというのに、河で死んだのだ。
謙信自身も馬を乗り放ち、流れてきた大木にしがみついてようやく岸に上がったという。
信玄公はこの話を聞いて、
「謙信は弓矢においては無類の侍だが、分別が無い。
何事も至れば臆病という言葉があるが、それも道理である。
どういう事かと言えば、増水した河に乗り込むの程なら、そこで死ぬ事こそ尤もである。
馬を乗り放してようやく河から上がるほどなら、増水した河の前で待って、
水量が落ちた時に渡って然るべきものなのだ。
ただし、謙信はたけき武士であるから、自分の家臣に対しても、
何の道であっても、たけく見られたいとの意識もあるのだろう。
それとても、いらぬ自意識は国を持つ者にとって非義である。
とは言っても、謙信もまだ30に足りない若者であるから、ああなのだろう。」
そのように仰った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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