天文一六年。
武田晴信は、関東管領上杉憲政の支援を受けて反旗を翻した、
志賀城の笠原清繁を討伐に動いた。
戦は武田優勢に進み志賀城は水の手を断たれ、
上州上杉軍は典厩、甘利、真田達に敗れ敗走し、上杉軍は三千人の捕虜を出した。
武田晴信はこの捕虜達を自分に逆らう者はどうなるかの見せしめとして、
捕虜三千人の首を全て刎ね、その生首を志賀城の石垣に並べたのだった。
志賀城の兵士達は三千の生首に戦慄恐怖したが、
この行為につまり降伏しても助かる見込みもなしと判断し、
激しい怒りと報復の念を抱き水がないにもかかわらず、降伏勧告の矢文を黙殺し、
落城まで最後の一兵までもが抵抗し、笠原清繁も城と運命を供にした。
城兵は悉く討死し、さらに家族は人買いの手に渡り金山の坑夫や娼婦、
奴婢として売り払われ、笠原清繁の妻はニ十貫文で小山田信有に買われた。
この悪逆非道な行いに怒った村上義清は死者の着る経帷子を旗印とし、
死んでも武田に降らない意志を示し、
上田原の戦いでは只ひたすら晴信の首を狙ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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