長篠の戦い敗走の時。
武田勝頼は、自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を、
初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、
小松ヶ瀬で馬を止めて待っていた。
初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢は、
これを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。
勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。
笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守満秀とする)がこれを見て、
馳せ付け馬から飛び降り、
勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、
勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。
その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君に代わって討死します!」
と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、
その疲れ馬に乗って轡を引き返し、
「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が12代の子孫、
笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」
と追い来る敵を2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。
これより後は、追う兵も少なくなったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、
1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた、
『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで、
初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も疲れたので殆ど持ちあぐね、
勝頼に断ってその兜を道に捨てた。
ところが、その後から来た小山田弥助がこれを見て、
「名高き兜を敵に取られては如何なものか。」
と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。
勝頼は大いに喜び、再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、
しばし梅酸で渇きを休め、また乗り出したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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