永禄12年(1569)、長宗我部元親は宿敵である安芸国虎を滅ぼし、
その居城であった安芸城には、弟の香宗我部親泰を入れた。
この時、国虎の家臣であった畑山内蔵丞・右京の兄弟は、
国虎の嫡男である千寿丸を阿波の矢野備後の元に落ち延びさせ、
その後故郷の畑山に帰ったが、安芸一族は皆滅び、
その幕下はみな元親に降参していたため、
自分たちの身を置く場所もなかった。
そこで、この畑山兄弟は元親家臣の野中三郎左衛門と所縁があったため、
これを頼り、元親に降ることを乞い、そうしてようやく畑山に居住した。
ところが、元親からの内命によって、
香宗我部親泰はこの畑山兄弟を謀って安芸城に呼び寄せ、
そこで彼らに詰め腹を切らせて、殺害したのだ。
畑山の家臣たち36人はこの報を聞くと直ぐに集まり、涙を流して評議した。
「さても!かのご兄弟をたばかり殺されるとは、
無念というにも余りあることだ!
もし我々が従っていれば、
あのように暗々と討たせることはなかったのに!
この上は安芸の城に押し入って香宗我部親泰を討取り、
この鬱憤を散じよう!」
そうしてこの36人は皆で神水を飲み、
出るを最期と思い定め安芸城に向かった。
これを知った香宗我部親泰は、
「死夫の向かう所、砕き難き習いであれば、
小勢といっても侮ってはならない!」と、
屈強の兵200人余りを出して、これを防がせた。
36人の者たちは、元より覚悟のことであれば、
切られようとも突かれようとも物ともせず、
一歩も引かず、一人残らず一箇所にて討ち死にした。
城兵も、数多討たれたのだという。
この事が岡豊に知らせられると、元親は、
「哀れ、なんという剛の者たちだろう。
一騎当千とは彼らを指すべき言葉だ。
最も勇も有り義もあり、感嘆するに余りある。
その霊魂を弔わないでおくということがあるだろうか!
そしてこれは、緒士に手本として見せるためでもある!」
そう言って、彼らが討ち死にした場所に、
36本の卒塔婆を立て、数多の僧を請じて弔った。
それからはその場所のことを、
『卒塔婆ヶ本』と呼ぶようになったそうである。
注・卒塔婆は仏塔とも訳され、
細長い板のような形をしていて故人を供養するために立てられます。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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