村上景親 (むらかみ かげちか) | げむおた街道をゆく

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村上 景親(むらかみ かげちか、永禄元年(1558年) - 慶長15年2月9日(1610年3月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏・毛利氏家臣。父は村上武吉、母は村上通康の娘。兄に村上元吉。正室は平岡房実の娘。側室は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族の娘。息子は早世した八助と村上元信。娘は村上元武や宍戸景好の妻となった。通称は三郎兵衛尉、源八郎。初めの主君・小早川隆景より偏諱を賜い景親と名乗る。



ー 生涯 -
1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。その後は、兄と行動をともにした。1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。
防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。
1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。


以上、Wikiより。



村上景親