三好義賢 (みよし よしかた) | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

三好 実休(みよし じっきゅう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の次男。



ー 生涯 -
大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる(生年には大永6年(1526年)説もある)。兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。
天文13年(1544年)、兄に従って京都に入る。兄・長慶は細川氏の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で分家の阿波守護である細川讃州家の当主細川持隆に仕えた。四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。
天文16年(1547年)、細川晴元らと対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに舎利寺の戦いで大勝した。その後は兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。
天文22年(1553年)6月に一存と共に細川持隆を見性寺で殺害し、その子・細川真之を傀儡の守護として擁立した。この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波が反抗したが(鑓場の義戦)、実休はこれも打ち破り、細川讃州家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。実休は、持隆とその一党を、兄長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。しかし、実休を憎む者、妬む者、また持隆の遺子細川真之に接近するものが少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった[6]。
天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。しかし永禄5年(1562年)、紀伊の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36[7]。また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。跡を子の三好長治が継いだ。
実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた[8]。



ー 人物 -
『昔阿波物語』は、実休を「猛将ではあるが文化とは程遠い人物」として描いている[9]。この文献によって、実休は主の細川持隆を殺した陰湿な武将としての印象が世に伝播した[9]。しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった[9]。堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達(津田宗及の父)であり[9]、他には、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている[10]。
実休は自身が帰依した妙国寺の開山・法華宗の日珖に、堺にある別邸を寄進している[11]。敷地の広さは東西が300メートル、南北が500メートルである[11]。一方で、長慶らは三好一族は臨済宗大徳寺北派の笑嶺宗訢や大林宗套に帰依しており、これには経済的・文化的双方の側面が影響していると指摘される[3]。実休が出家したのはかつての主君・細川持隆を殺害した直後であり、出家及び日珖への帰依の背景には、持隆を殺しことへの懺悔の心が読み取れるといわれる[12]。
実休は兄の長慶ほど和歌・連歌には傾倒しなかったが、その分茶道に強く傾倒した。山上宗二は『山上宗二記』において、「名物を五十種類も所持していた」「実休は武士でありながら数奇者だ」と評した[13][12][14]。宗二が数奇者と認め称賛した武士は、実休ただ一人であった[15]。また、実休所持の名物茶器の中でも、三日月の壺は宗二が『山上宗二記』において「天下無双の名物」と称賛したほどのものであった。この壺は他の実休所有の多くの茶器と共に織田信長の手に渡り、本能寺の変で焼失した[13]。
和歌においては、辞世の歌がよく知られている[11](安宅冬康の項目も参照)。なお、実休の死に際して武野紹鴎が惜しみ追悼の歌を詠ったという逸話があるが(武野紹鴎#逸話参照)、紹鴎は実休の戦死以前に死去しており事実ではない[16]。

草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず


以上、Wikiより。



三好義賢