三好義興 (みよし よしおき) | げむおた街道をゆく

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三好 義興(みよし よしおき)は、戦国時代の武将。三好長慶の嫡男で嗣子。将来を有望されたが、父より先に早世した。



ー 生涯 -
天文11年(1542年)、三好長慶の嫡男として生まれる。天文21年(1552年)12月25日に元服して孫次郎慶興と名乗った[3]。永禄2年(1559年)2月に父と共に上洛し、3月に正式に義輝と謁見して仕えている[4]。12月18日に室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を賜って義長と名乗る[5]。永禄3年(1560年)1月21日に従四位下・筑前守に叙位・任官された[6]。父が河内飯盛山城に移ると、摂津芥川山城を任されている。
永禄4年(1561年)1月28日、松永久秀と共に正五位下から従四位下に昇叙した[7]。2月1日には父や久秀と共に桐の紋(足利将軍家の紋)の使用を許された。また御供衆・相伴衆に任じられる。
父に劣らず智勇に秀で、六角義賢が京都に侵攻して来た時は7000の兵を率いて梅津に在陣[8]、松永久秀も7000の兵を率いて西院に在陣して六角軍と交戦した。この戦いは六角軍が優勢で義興と久秀は押され気味だったが[9]、11月に久秀が反撃して義賢こそ討ち漏らすも永原重澄らを討って勝利した(将軍地蔵山の戦い)。対陣は永禄5年(1562年)にまで持ち越し、義賢に呼応して攻めてきた久米田の戦いでは勇猛で鳴る畠山高政の前に叔父の三好実休が戦死したため、3月6日に義輝を男山八幡に避難させ、自らは久秀と共に山崎に布陣した。このため京都は一時的に六角軍の手に落ちたが、義興は畠山軍の対処を先として5月下旬に摂津において教興寺の戦いで畠山軍に大勝した。このため六角軍も京都から撤退し、6月22に義輝が帰京すると義興・久秀らは4日後に下賜品を受けた[10]。
8月に京都北山において伊勢貞孝が六角軍と通じて反乱を起こすと、久秀と協力して8000の兵で9月11日までに討ち取った[11]。また、豊かな教養人でもあり、将軍義輝や公家達からの信望も厚かったという。
しかし永禄6年(1563年)6月に病に倒れた。曲直瀬道三などが介抱したが、病状は悪化する一方であり[12]、8月25日、結局快方に向かうことなく、芥川山城において死去した。享年22[13]。『足利季世記』は死因を黄疸と伝える[14]。長慶の死後、三好氏は従弟の義継が継いだ。



ー 人物・逸話 -
高槻市の霊松寺に墓所があり、自然石で作られた墓石は「三好のカンカン石」と呼ばれている。
義興は義輝と年齢が近く教養も武勇もあったためか、義輝と厚い親交があった。義輝からすれば政略目的もあったろうが、義興は20代前後で長慶とほぼ同等の優遇を受け、永禄4年2月23日に義興が金閣見物の際には義輝と共にあり様々な下賜を受け、その返礼に3月には義輝の御成を求めたりしている[15]。


以上、Wikiより。



三好義興