水野忠重 (みずの ただしげ) | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

コーエーの歴史ゲームが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。


テーマ:
水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男。母は華陽院。子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。法名は賢忠。道号は勇心[1]。



ー 生涯 -
天文10年(1541年)、尾張国知多郡方面を治めた水野忠政の九男として誕生。母は華陽院。兄弟に水野信元、於大の方などがいる。
はじめ、兄の信元とともに尾張国の織田信長に属し、永禄元年(1558年)の尾張緒川・石瀬での戦い、同3年の刈屋十八丁畷の戦いに功を挙げたという[2]。その後、信元と不和になり、そのもとを去って三河国の徳川家康の麾下に仕える[3]。家康からは鷲塚の地をあてがわれ、自ら築城した。三河一向一揆の鎮圧に戦功をあげた。『三河物語』によれば、「金ノ団扇ノ指物ヲ指ケル間、新九郎ト見懸て我モ/\ト追(懸タリ。水野藤十郎(忠重)殿懸付て、突落シテ打取給ふ。頓て佐馳(橋)甚五郎(吉実)・大見藤六郎、是兄弟モ一つ場にて打取。」とある。一揆方となった蜂屋貞次と戦ったという[4]。
以後、駿河掛川城攻め、天王山の戦い、姉川の戦いに従軍。三方ヶ原の戦いの時も軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った[5]。これは家康の影武者を務めていたのではないか、と考えられている[6]。一方で、天正3年(1575年)に吉田城にて武田軍の攻撃を防ぐも負傷し[1]、長篠の戦いでは家臣の水野清久(のちの正重)を代理で参加させたという[7]。
同年、信元が武田氏との内通の嫌疑をかけられ織田信長に殺害された。天正8年8月(1580年)、織田家臣の佐久間信盛が追放されて三河刈屋城が空くと、忠重は信長よりそこを与えられ、9月23日に入城した[8]。鷲塚城は廃城となった。これにより再び信長の臣の立場に戻り、織田信忠の軍団に組み込まれたらしい。天正9年(1581年)1月4日、信忠の命により、同族水野守隆とともに横須賀城の番手として派遣された[9]。この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている[10]。この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている。天正10年(1582年)2月、信忠の甲州征伐に従軍。武田滅亡ののち、信長を三河池鯉鮒にて饗宴している[9]。
同年6月、本能寺の変が起こると、信忠と共に二条城にあったが脱出して三河国刈谷に逃げ戻り、以後は織田信雄に属した。天正12年(1584年)に羽柴秀吉との小牧・長久手の戦いが起こると本治城・常滑城を攻略。長久手の戦いでは先導役を務め、蟹江城合戦で活躍した[11]。
戦後、主君・信雄は秀吉と講和。この時期、嫡男の勝成が素行不良の果てに家臣を斬り殺して出奔したので、勝成を奉公構えとした。勝成は秀吉より、摂津豊島郡の内、神田728石を与えられた[10]。「織田信雄分限帳」(天正13-14年成立)によると、忠重は刈屋、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち都合1万3千貫文を領するとなっている[12]。信雄の命で雑賀攻めに出陣。 九州陣、小田原陣と秀吉の統一戦に参加している[13]。天正15年(1587年)7月30日、豊臣姓を賜り、従五位下和泉守に叙任する[14]。
小田原陣直後の同18年9月4日、信雄の失脚に伴うことか、伊勢神戸4万石に移封され[11]、秀吉に従った。文禄元年(1592年)名護屋在陣[15]。文禄3年(1595年)に再び本領刈屋城主に戻り[2]、石高は2万石[16]とされた。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、家康に従った。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、本戦直前の7月、三河池鯉鮒(現・愛知県知立市)において堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、西軍方の加賀井重望に暗殺された[17]。
なお、墓所は息子の勝成と同じ広島県福山市の賢忠寺にある。


以上、Wikiより。



水野忠重

Ameba人気のブログ