水野勝成 (みずの かつなり) | げむおた街道をゆく

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水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。



ー 経歴 -

少年期
勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている[註 13][註 14]。永禄7年(1564年)に三河国刈谷の生まれたとされるが、父・水野忠重は勝成誕生の永禄7年には三河国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。

高天神城の戦い
初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名[註 15] になる。勝成は奥田城、細目城を任される。
同年の第2次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年(天正9年)まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。

天正壬午の乱
天正10年(1582年)、勝成は父の許を離れ徳川家康の天正壬午の乱に参加する。甲斐古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某[註 16]の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和を成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某[註 17]等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる。[1]

小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である父・忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、岡田善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城に移り三好秀次を攻撃した。
この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると[2]、そのまま豊臣秀次麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[2]、徳川家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した[3]。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った[2]。

出奔
天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が秀吉と伊勢桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[2]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。美濃、尾張の関係城主を訪ねて、その地に逗留していたが、忠重よりの奉公構に各城主は遠慮して、長居はできず、遂には京都にいく。
京都では従者も連れず闊歩し、京都南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした[4]。天正13年(1585年)に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津豊島郡700石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれた[5]というから、相当の怒りを買ったと思われるが、勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細な成行は不明である[註 18]。

九州転戦
天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられており、成政配下の隈部親永の反乱(肥後国人一揆)鎮圧に参加し菊池城を攻めた。ここでも勝成は一番槍をあげ、隈本城救援でも功名をあげた。また、この戦いの最中で同じ成政家中で武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。そして佐々成政の要請に応じた立花宗茂が、包囲された兵糧不足の佐々方の平山城を救援する際も、立花家臣の十時連貞、安田国継らと共に連携して救援成功した。首謀者の隈部親子を勝成が討ったという説[6]もある。しかし、佐々成政は一揆発生の責めを受け切腹し肥後は小西行長が治めることになる。このため天正16年(1588年)に勝成は行長に1,000石で仕官することになった。
天正17年(1589年)、宇土城普請に際して天草五人衆の反乱(天正天草合戦)が発生すると、勝成は小西行長の弟・小西主殿介の副将としてこれに参加し、ここでも阿波鳴門之介(勝成と同様に小西氏に仕官していた)と戦功を競った。勝成は志岐鎮経の本拠である志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略し、続いて天草種元の本渡城を攻め落とした。この反乱の鎮圧後、勝成は小西行長の元を去り清正に仕官するが、間もなく立花宗茂の相伴衆[7]、さらに黒田孝高の家中となり豊前国一揆鎮圧に参加する。この戦いでは野中鎮兼が籠もる長岩城を攻略した。しかし、長岩城の守りは堅く黒田軍は一時退却することになるが、このとき後藤基次と殿の栄誉を争った。なお、長岩城は黒田軍に攻め落とされ、戦は和議により終結する。
天正17年(1589年)、黒田孝高の長男・長政が豊臣秀吉に拝謁するため肥前から船で大坂に向かうことになり、これに勝成も随伴していたが、その途中の備後鞆の浦において船から降り逃亡した。これは勝成が船上で長政に操船の手伝いを命じられたことに憤慨したためだといわれるが、過去に秀吉の怒りを買っていたことにより、大坂行きを嫌ったためともいわれる。

貴種流離譚
ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている。備中・備後においては流浪の勝成伝説が多く出来あがっており、その中には明らかな作り話もある。鞆の安国寺に隠れた。芦田郡土生城主豊田美濃守の所に泊した。行き倒れて老婆に飯を恵んでもらった。またこの老婆の紹介で姫谷焼の人夫として働き、「日ならずして無類の上手になり」立ち去った。さらには徳川家康の密偵として全国を旅していた[註 19]。以上のような伝説の類のあと、最終的に備中成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、三村親成の月見会の席上で、作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔する。翌4年(1595年)正月、再び三村氏の成羽に帰り食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる「お(於)登久(おとく)(藤井皓玄の末)」であり、この子供が後に備後福山藩第2代藩主となる勝俊である。

家督相続
慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・水野忠重と15年ぶりに和解する。勝成36歳のときであった。同年4月22日、勝成の妹かな姫(のちの清浄院。当時18歳)が家康の養女となって、加藤清正(38歳)と結婚[8][註 20]。慶長5年(1600年)に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している[9]7月18日、三河池鯉鮒にて、水野忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された[10]。殺害された加賀井重望の懐から、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた[11]。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の家督相続[註 21]を命じられた。

関ヶ原の戦い
水野家当主となった勝成は会津征伐中止により刈谷城に戻り、関ヶ原の戦いへと出陣する。9月13日、島津義弘の足軽が曽根城に鉄砲を撃ちかけてきた。井伊直政、本多忠勝から「六左衛門殿でなくては、この戦は手に合わないので、直ちに島津勢に軍勢を差し向けてもらいたい」と懇願される。[要出典]勝成は弟・水野忠胤と共に曽根城の防衛に向かう。勝成が楽田の陣の櫓に鉄砲を撃ちかけると、島津はさっさと楽田より引き上げてしまった。[要出典]翌日、勝成は関ヶ原への従軍を家康に願いでるが許されず[要出典]、大垣城への抑えとされた。そこで14日深夜松平康長・西尾光教・津軽為信[註 22]・松下重綱らと共に、石田三成が出撃した直後の大垣城を攻めた。三の丸を占拠。二の丸に攻め入るもその場で火を放って撤退[註 23]。[要出典]関ヶ原本戦の勝利の情報が届くと、囲みを解いて曽根に撤退。そのため、本戦の敗残兵が入り、大敗を吹聴したため城内の士気は瓦解する。勝成はたまたま秋月種長と知り合いだったので、城将を暗殺して内応の実を示すならば旧領安堵の労をとろうと伝えた[要出典][註 24]。16日の夜、相良頼房・秋月種長・高橋元種が内通を申し出る。18日に垣見一直・熊谷直盛・木村由信・木村豊統の首級をもって来た。23日に守将の福原長堯は降伏して城を明け渡した。この際に勝成は石田三成から長堯に与えられていた名刀を奪っており、この刀は後に水野勝成の官名「日向守」から「名物日向正宗」と名称付けられ、現在は国宝に指定され三井記念美術館に収蔵されている。 攻城軍が城兵に逃散を呼び掛けていたこともあり、城内には三十人程度しか残っていなかったが、その中に、加賀井重望の息子・加賀井弥八郎が残っていたので、これを殺して、父の仇打ちとした。勝成は福原長堯の助命を願いでるも、許されず切腹となった。[要出典]石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大路を晒されていくとき、勝成は用意していた編笠を被せてやった。これは旧主、小西行長への義理と考えられる[12]。

三河刈谷藩主
刈谷城は勝成の手によって近世城郭へと改修され、徳川家康の故郷である三河国の重要拠点となる。勝成が築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流し海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した平山城で、その姿から別名で亀城と呼ばれた。慶長6年(1601年)に勝成は従五位下に叙任され「日向守」を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、それ以来名乗るものがなかったが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし、逆に日向守を欲したという。以後はその勇猛さから「鬼日向」と渾名されることもあった。[要出典]慶長7年(1602年)8月28日、勝成の伯母にして、家康の母・於大の方が亡くなる。慶長13年(1608年)、勝成は備中成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せ、同年勝俊は徳川秀忠に仕えることになった。

大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では勝俊を連れ参加。博労淵砦の視察を永井直勝と行う。その後、攻略のため博労淵に仕寄(攻城設備)を築くが、勝成に手柄を独占されることを嫌った[要出典]蜂須賀至鎮が翌朝に砦を攻め落とした。12月1日、森忠政が天満橋を挟んで銃撃戦をしていると、家康の指示で戦闘の収拾に出向く。
夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の先鋒大将[註 25]に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。なお、このときには大坂方から鬼日向の異名で知られていたようで、[要出典]大野軍は勝成の馬印を見るや退却していったという[註 26]。
奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政・松平忠明・伊達政宗・松平忠輝らと合流すると大坂城大和口へと兵を進めた。この途中、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。前夜のうちに小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を行い、図に当たる。[要出典]ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にも関わらず一番槍[13]をあげ、基次の部隊を壊滅させた[註 27]。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた[14]。そのまま追撃戦になり、薄田兼相は勝成の家臣に討ち取られた[註 28][註 29]。そこに大坂方の後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してきたためこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいため、戦端を開きたい旨を、隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れるたが、二度、無視された。三度目には政宗が直接、勝成の許に訪れ、弾薬不足や死傷者の多さを理由に拒絶[註 30]。そのため大坂方と徳川方は睨み合いの状態となり、のち豊臣方が撤退したため、戦いは終結した。翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前勢松平隊とともに戦って茶臼山[15]を落とし[註 31]、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多思政[16]、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から六百人許り、踊を揚げて攻寄せた[註 32]。三方から敵を受けた信繁はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある[17]。その後松平忠直の軍は明石全登の突撃を受けて総崩れとなった。忠直の兵は勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した[要出典]。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣汀三右衛門が討ち取った[18][註 33]。大坂城桜門に一番旗を立てる。

大和郡山藩主
元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」[註 34]とされ、大和郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領[註 35][註 36]に睨みをきかすために、歴戦の強者である[要出典]勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人はおおかったらしく[要出典]、勝成自身は2、30万石の知行を期待していた[19]が、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる[要出典]。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている[19][註 37]。郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の釈尼妙瞬が亡くなる。

初代福山藩主
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、[要出典]受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。[要出典]入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城(詳しくは「福山城 (備後国)」を参照)であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。
福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行[註 38][20]した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の第5代藩主の勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。
家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。逆に勝成の領国経営は池田光政の政策に影響を受けたといわれる。
寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、徳川家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。

島原の乱
寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る[21]。
徳川家光は、勝成に松平信綱、戸田氏鉄と同格の相談相手になることを命じる[註 39]。軍師ということだろう[誰?][22]。
勝成は2月24日に島原に到着し、同日松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。ここで勝成の提案により[要出典]総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子・康純が本丸の一番乗りを争った。しかし、勝成が前線指揮をとっていなかったからか[要出典]、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、勝成の戦歴で最大の損害[要出典]となった。
戦後、勝成は板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。駒木根友房は、小西家の旧臣であり、生前に勝成と面識があったのかもしれない。[要出典]板倉重昌の息子・板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの千多国房[23]の刀を与えた。
黒田家臣の郡正太夫(郡宗保の後継)の活躍を称えて盃を与えた[24]。黒田一成、黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した[25]。

隠居・最期
島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎[21]と号する。しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。寛永20(1643年)、80歳の勝成は、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644年)、法躰となり宋休と号す[21]。慶安4年(1651年)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。
神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。
大正8年(1919年)、従三位を追贈された。



ー 人物・逸話 -

江戸時代
慶安3年(1650年)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている[26]。
寛永11年(1634年)、各大名に対し幕府から江戸に人質を送るよう通知があったとき、勝成は「人質として出すような者はおりません」と返事をするが、これに対し幕府から「誰でもよいから出すように」と言われたため、「自分は浪人をしていたとき、備中国成羽にて召し使えいていた下女に倅(水野勝俊)を産んだものがいるが、これより外にはいない」と、お登久を江戸に差し出した。その後、勝成は正室「お珊」を迎え、お登久は入れ替わりに都築右京に再嫁させた。なお、お登久は正保4年(1647年)に死去するが、遺骨は当時備後福山藩第2代藩主となっていた勝俊が福山に持ち帰り葬っている。
水野時代の福山藩は、表石高10万石なのに対して、実質15万石とか30万石といわれるように大変豊かだった。しかし、阿部氏時代の福山藩は、水野時代の七割の領地しか与えられておらず、表石高10万石なのに対して、実質も10万石であった。そのためどうしても水野時代よりも税金を高くしなくてはならなず、水野氏の治世を懐かしむ領民の扱いに苦慮する。そこで水野氏の治世を辱めるべく「五霊鬼」や「お糸伝説」といったデマを流す。後年、阿部氏の治世が終わると、福山市民はこれらの悪評を払拭して、水野勝成を福山開祖として慕うようになる。ちなみに下記に紹介されている法螺貝の修験者善養の逸話も五霊鬼のひとつである。
熊本城受け取りの折、立花宗茂の家臣に十時連貞の消息を訊ねている。勝成と連貞は、肥後一揆の兵糧入れの戦いでともに合言葉を言い合いながら作戦を成功させた仲であるが、この二人にはそれ以外にも不思議な縁がある。連貞が江戸の町で暴漢に襲われ格闘した事件を土井利勝に審議されたことが、立花宗茂の大名復活のきっかけである。その後、宗茂は徳川秀忠に寵用されていく。利勝と勝成は従兄弟。秀忠と勝成は乳兄弟である。また、宗茂の妻誾千代が、滞在していたのは、勝成の妹の嫁いでいる加藤家である。もしかしたら、立花宗茂の大名復活の裏には、なんらかの形で勝成がかかわったのかもしれない。
勝成は諸国を流浪した苦労人だったため、晩年になってかつての旧臣に出会った。その旧臣は勝成の下で300石を食んでいたが、辞去して他家に仕えて1000石を食んでいた。しかし高禄を得ても勝成の下の者をいたわる慈悲に満ちた処遇は禄に代えがたいとして帰参を願い、勝成も喜んで承諾した。『常山紀談』には「全ての士に、身分の貴い、賤しいはない。主君となり、従者となって、互いに頼み合ってこそ、世は立つ習いである。だから大事の時は身を捨てて忠義をなすのだ。汝らは我をば親と思われよ。我は汝らを子と思わん」という勝成の言葉が伝わっており、さらに勝成は若い日を回想して「尺八1本を携えて虚無僧となって、日本国を巡り、ある時は堂塔で夜を明かし、ある時は野にも山にも寝て、様々な艱難にあい、人に謗られもした。しかし一言も嘘をつかず、仁に背く振る舞いをしなかったから、今の福山10万石があるのだ。下の者への情を知ったのは、虚無僧をしたからだ」と語っている[27]。

一族
加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、実は勝成の父忠重の女、即ち勝成の妹である。加藤家断絶の時に勝成・勝俊は熊本城受け取りの役目を勤め、この時に清浄院を福山に引き取った。
「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は勝成の孫である。勝成はこの孫をとても可愛がったという。水野十郎左衛門は白柄組という有名な旗本奴集団を作るが、肖像画や長久手の合戦屏風に描かれる勝成の刀の柄も白い。十郎左衛門が祖父に影響されたのではないか、と思われる。十郎左衛門が、幡随院長兵衛を殺した時にも、「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」と老中評定で無罪になっている。十郎左衛門が賜死となったのは、旗本白柄組の無法ぶりが、それからますます激しくなり、勝成が亡くなったあとである。
初代信濃松本藩(現在の長野県松本市)主の水野忠清は勝成の実弟。
水野勝成の弟水野遠江守忠直(水野八十郎)は慶長7年(1602)、宝飯郡内で3,000石を領した。寛永11年(1634)忠直が没し、子政直が継承したが、翌年、家禄は没収され、屋敷も取り壊された。同地に水野八十郎の墓がある。
水野忠元は従兄弟。天保の改革の水野忠邦はこの末裔。
踏み絵を発案した水野守信は、母親が水野信元の娘。
水野長勝の母親は於丈の方(忠政の娘)。つまり、勝成や家康の従兄弟。信長に仕え、妻は森成利(蘭丸)の姉。本能寺の変のあと、北条氏邦に仕え、北条滅亡後に徳川に仕え、旗本寄合席となる。
鳥居元忠の正室の母親於丈の方(於上の方。松平家広の妻)は、水野忠重の姉である。つまり、元忠と勝成は、義理の従兄弟ということになる。
酒井忠次の正室の碓井姫(父は松平清康、母は華陽院)は、水野忠重の異父妹である。つまり、勝成とは義理の叔父と甥ということになる。
結城秀康の母親於万の方(長勝院)。彼女の母親は、水野忠政の娘である。家康と於万の方は従兄妹という関係だったのだ。
奥平貞能の母親は、水野忠政の妹。
水野流弥和羅(やわら)、水野新当流柔術、水野流居合術の流祖水野柳滴斎(水野新五左衛門重治あるいは勝重)との関係は不明。しかし、水野姓に「重」の付く名前である。無関係とは思えない。備後福山藩士朝比奈平兵衛の長男・朝比奈半左衛門可長が学んでいる。
『日本家紋研究会』の高澤等は『太閤素生記』を参照にして、秀吉一族が用いる沢瀉紋と秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、織田信秀の同朋衆あるいは水野氏説のある継父・竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの推測の説を『歴史読本』に寄稿しているが、真偽の程は不明である。そもそも秀吉は、忠重の12万石ともいわれる石高を2万石にまで順次削減している。秀吉と水野氏が親密だったフシはまったく感じられない。

現代
京都日向の町名は、勝成の屋敷があったことに由来する。
水野勝成記念という地方競馬の大会がある。細目城には勝成の埋蔵金伝説がある。
毎年、福山市の姉妹都市である岡崎市で行われる家康行列では、徳川家臣として四天王以外でただひとり選ばれている武将である。
福山かなりや幼稚園は菩提寺の賢忠寺が運営する幼稚園で勝成公の教えを子供達に伝えている。
グレート家康公「葵」武将隊の一人に選ばれている。刈谷城築城盛上げ隊の一人に選ばれている。刈谷市のマスコットキャラクター「かつなりくん」は、水野勝成をモチーフにしている。
現在刈谷市内には、勝成奉納の総髪の兜、獅子頭、棟札などが残っている。
麦焼酎、刈谷城築城浪漫鬼日向がある。
福山市鞆町で毎年五月初旬から五月末に行われている鯛網は、江戸時代初期福山藩主水野勝成の命により寛永二年(1632)考案されたと云われている。

文化人として
刈谷城主であった慶長12年(1607年)に歌舞伎女「出来島隼人」を身請けし、慶長13年(1608年)に京都で勧進法楽(公演)の歌舞伎を行わせている。この公演を京都の町人は褒め称え、若者で見ないものはいなかったという[28]。出来島隼人の名前は『慶長見聞集』にもみられる。慶長13年(1608年)、出来島隼人一座は家康によって「淫佚である」として駿府から追放された。
肖像画は、正保2年(1645年)、水野勝成晩年の姿を描いた画である絹本著色水野勝成画像(広島県重文)のほか、長久手合戦図屏風、大坂夏の陣図屏風に描かれている。
菱川師宣と交流があり、勝成が注文した美人画がある。
利休丸壷は漢作の大名物で銘は千利休所持に由来し、金森氏から水野勝成へ伝わった。
喜多七太夫の息子・寿見が勝成の機嫌を損ねさせたので、親の七太夫がわざわざ福山までやってきて、「道成寺」を舞って勝成のご機嫌を直した。
仕舞では「屋島」を好んで舞ったという。
勝成は文学が好きで、特に俳諧を好んだ。能楽も好み、秀忠から伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領し、自ら演能した。愛用の笛、銅簫「不絶」が伝わっている。
連歌や和歌もよく嗜み、自ら作歌詠吟している。勝成と智箭が連歌した百句が現存しており、言葉の使い方や辞句の配置などなかなか質の高いものだという。晩年は、京都から俳仙といわれた野々口立圃を福山に呼ぶなどして福山藩の俳諧の興隆の礎を築いた。また学問奨励にも努め、福山藩水野時代に、崎門学派の三傑と称せられる佐藤直方・中島道允・永田素庵を輩出している。
江月宗玩(津田宗及の息子)に帰依した。

武将として
安田国継とは京都で知り合った。「天野源右衛門(安田国継)は上方に在り(死んでしまったが)、今も友人である」と語っている。
『続日本随筆大成』には「水野勝成ハ、藩翰譜ニハ、腹悪シキ人ノ様ニカキタレドモ、楢埼景忠ナル者、備後府中ノ人ニテ、大坂城中ニ籠リ、善ク戦ヘリ。勝成福山ニ入部ノ時、首ニ景忠ガ事ヲ問フ。土人大城ノ事、吟味ニナランカト恐レテ、既ニ死セリト云フ。千石ヲ取ラセント思ヒシニ、死シタルカト云テ、惜マレケルヨシ。人材ニ汲々タルハ、サスガ名将ナリトゾ 」とある。
官職の日向守にその勇猛さをかけられて、鬼日向と称された[27]。
名将言行録には「倫魁不羈」[註 40]と書かれている。
常山紀談には「勝成あら者にて人を物ともせず」と書かれている。

その他
福山の郷土料理うずみ。これは福山藩主水野勝成が行った倹約政策の最中にできたとされるが、その根拠はない。第一に勝成が倹約令を出した記録がないのだそうだ。普通に考えれば、倹約令を多発した阿部時代の産物であろう。
備後府中の白味噌に惚れ込んだ勝成は、参勤交代の道中、諸大名にこれを贈呈してまわった。これが諸大名に絶賛され、注文が殺到。いつの間にか「府中に味噌あり」と全国に名を馳せ、日本三大味噌どころになった。
街道を行く旅人のための「休み堂」として、領内に辻堂を一斉に建築[29]。勝成が備後を治める以前に建てられた堂宇もあるらしいが、本格的に普及させたのは勝成である。この習俗は、浅野領内にまで伝播している。備後縞は水野勝成が綿花の栽培を奨励し、綿織物の生産が行われたのが始まりといわれている。
現在の神石高原町に「善養」という修験者がおり、ほら貝の名手として知られ、その音は十里四方に響いたという。勝成はこの人物を召抱えようとするが、善養は自分のほら貝が戦に使われることを好まず断ったことから、怒った勝成は善養院を井戸で石詰めにして殺したという。人々は善養院を祀って祠を建て息長神社と呼ばれるようになり、この井戸は現在も息長神社の傍らに存在している[30]。五霊鬼のひとつであるこの言い伝えは、虚構であることがわかっている。仙養坊の墓は、水野勝成に殺されて約30年後の建立されたといわれ、高さ約1メートルの円筒形墓石には「大蔵坊霊位・延宝六」(1678年・神石郡詩)とあり、仙養坊霊位はない。また、郡詩に仙養坊は「慶安年中(1648-1651)の頃の人」とあるが、仙養原で修行した年代なのだろう。生年没年不る。とはいえ、史実では勝成死去が同じ51年で享年88。12年前の1639年には76歳で城主を退き宗休と改名して隠居。これでは勝成の権力行使の条件と年代が仙養坊に結びつかない。まして、セリフ入りは「歴史」として致命傷。[31]


以上、Wikiより。



水野勝成